一宮市恵林寺のブログ

愛知県一宮市恵林寺と関口道潤に関する坐禪会の提唱その他を紹介します。


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燃燈佛授記図

この絵は私が平成23年ころから書き始めて、10年以上も経過して描いた、71センチ、丈87センチの小ぶりな画仙紙画です。原画は現存しませんが、もとシルクロードのトルファン地区のベゼクリク石窟(現在の中国新疆ウイグル自治区のトルファン高昌区火焔山周辺)にあった千仏洞石窟寺院にありました。探検家のル・コックによってドイツに持ち去られ、ベルリンの民族学博物館に所蔵されましたが、第二次世界大戦の爆撃で破壊されました。もしこの原画が現存していれば間違いなく世界文化遺産に登録されていたでしょう。私は、保存されていた写真によって復元模写しました。この壁画が描かれたのは唐代以前にあたり、現地は敬虔な仏教国でしたが、その後イスラム国に代わり、偶像崇拝が禁止されましたが、砂漠化で砂に埋もれたために、近世まで保存されました。その後、ドイツに渡りましたが、戦災で焼失するという数奇な運命をたどりました。壁画の表題には
  「光明と名声ある燃燈佛を見て、儒童梵士は七つの青い蓮花をもって供養した。 第二阿僧祇劫の終わり。」と梵字で書かれています。

私が燃燈佛に関心を持ったのは道元禅師の著作『正法眼蔵供養諸佛』を拝読した時にさかのぼります。しかしその時は釈尊の過去世で『瑞応経』などにある釈尊が儒童梵士Sumedha(菩薩)と呼ばれた過去世において、鉢摩国に来て、人々が歓喜して水溜りに土を盛り清掃しているので、その理由を尋ねたところ「間もなく錠光如来(燃燈佛)がここに来臨し給う」と聞いたので、共に道普請に加わった。しかるに道がいまだ完成しないのに、仏が多くの弟子を随えて現われた。すると儒童菩薩は花を持っていた女人より五華をあがない、その花を仏の頭上に散じて荘厳し、自らは鹿皮の衣を脱いで湿地を覆い、足りないところには髪の毛をほどいて泥濘に敷いて、身を伏せて「仏よ、どうぞ弟子方と共に私の背中を踏んで通り給え」と申し上げ、広大な誓願を起こし、その時すでに投げられていた蓮華は空中に留まり、妙香を放ち華を開かせ、仏は、この菩薩の殊勝な誓願を知り、「儒童よ、汝は必ず遠き未来において釈迦如来となるであろう」と、未来成仏の約束を与えられた、いわゆる燃燈佛授記図のことは知らないでいた。その後、今回の原図としたベルリン博物館藏の壁画復元写真を目にしたので、十年ほどかけて描きました。

『正法眼蔵供養諸佛』の「おほよそ供佛は、諸佛の要枢にましますべきを供養したてまつるにあらず、いそぎわがいのちの存せる光陰を、むなしくすごさず供養したてまつるなり。たとひ金銀なりとも、ほとけの御ため、なにの益かあらん。しかあれども、納受せさせたまふは、衆生の功徳を増長せしめんがための大慈

大悲なり。」という言葉を噛みしめながら筆をおきます。令和四年一月下

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水鳥樹林悉皆念仏念法念僧

                道融興正

本師内山興正老師は生涯を通して、筋金入りの坐禅の継承者を育成することに努力しました。京都の安泰寺に住職した期間は正にそれを実践しました。そこでは『自己』、『観音経を味わう』、『正しい坐禅のすすめ』、『進みと安らい』、『生命の実物』など幾つもの著書を残されました。また各地で提唱した『正法眼蔵』の記録がまとめられ、自身で校正した提唱録も多くあり、その著作は実に百数にも及びます。しかし、「悪書を後世に残さず」と言って、紙に書いた筆跡はほとんど書かれませんでした。もちろん筆字が不得意なのではなく、青年時代には習字に励んだこともあったようです。私をはじめ「何か書を書いてほしい」と弟子が依頼すると、なかなか首を縦に振りませんでした。ですからあまり残っていません。

今回、掲載したものは、これも昨年、私の手元に届けられた内山興正老師の遺品の中にあったものです。この言葉は一般には『阿弥陀経』に説かれる極楽浄土の様子を述べたものとされます。しかし『阿弥陀経』には「悉皆念佛念法」とあり、「水鳥樹林」は『観無量寿経』にあって、多少の差異があります。しかし、中国曹洞禅の源流である雲巌曇晟禅師と洞山良价禅師の問答の中で「無情説法」の典拠として記される部分には明らかに「水鳥樹林、悉皆念佛念法」とあります。これらは道元禅師の『正法眼蔵無情説法』の引用句として広く知られています。

 (洞山)師遂に潙山を辞して径に雲巖に造り、前の因縁を挙し了り便ち問ふ、無情説法甚麼の人か聞くを得ん。巖曰く、無情聞くを得ん。師曰く、和尚聞くや否や。巖曰く、我れ若し聞かば、汝即ち我説法を聞かざるなり也。師曰く、某甲、甚麼としてか聞かざるや。巖拂子を竪起して曰く、還た聞くや麼。師曰く、聞かず。巖曰く、我が説法さえも汝尚を聞かず。豈に況んや無情説法をや。師曰く、無情説法何の典教にか該む。巖曰く、豈、見かずや弥陀経に曰へり、水鳥樹林。悉皆念佛念法と。師ここに於て省有り。
 ここでの引用は瑩山禅師の『伝光録』に拠っています。

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内山興正老師の頂相

 内山興正老師は平成十年(1998)313日享年86で歳で遷化されました。内山老師は安泰寺6世住職ですが、生前、老師にお願いして一宮市惠林寺の4世となっていただきましたので、当寺にも分骨し、位牌と石塔が建てられています。私は老師が遷化される5年ほど以前の正月に、この頂相を写して、老師の許に行き、賛をお願いしたのですが、そのような仕事には興味が無くて、鄭重にお断りされました。それでも私はこの絵を老師の許に置いて帰りました。昨年2月桂子奥様が亡くなられましたので、老師の遺品の大半は私が引き取ることになり、遺品を整理していると、私の描いた頂相もそのまま置いてありました。私は「はやり書いて頂けなかった」と思っていましたが、別な場所に幅41cm高さ30cmの黒い厚紙に白のポスターカラーで「祇管生死」と書かれた詩を発見しました。「これは善い形見が頂けた」と喜んで持ち帰ったのですが、内山老師の23回忌も過ぎた、今年の4月、少暇を得ましたので、以前に描いて途中になっていた老師の頂相を完成させようとして、その賛語になる適当な筆痕を探しているうちに、この「祇管生死」を思い出し、寸法を測ってみると、頂相の賛語にピッタリでした。私はこの時初めて「師匠が私のために、用意してくれていたのだ」と気が付きました。老師は晩年、「若いうちは祇管打坐だけど、年を取って足が組めなくなったら念仏だ」と言っていました。そうはいっても老師が晩年、いつも念仏を唱えていたということは、あまり目にもしなければ、聞きもしませんでした。それとは別に幾つもの詩を作り、『生死発句集』としてまとめていました。この詩はそこに納められていますが、この黒い板の文字は明らかに、弟子の私に対しての形見として残してくれていたものだと受け止めています。

「実物のいのちの深さで生き死にす どっちへどうころんでも御いのち 

いまこの実物こそ御いのち 無有生死の祇管生死」

正しくこれは内山興正老師の遺偈と言ってよいでしょう。

「南無本師道融興正大和尚、生生世世知遇頂戴」

です。(一宮市惠林寺五世関口道潤敬って写す。)


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