佛誕生の花ー無憂樹と佛涅槃の花ーインド沙羅樹について
恵林寺 関口 道潤
ー無憂樹=アショーカ、菩提樹、娑羅樹=サーラ樹の三種類の樹木や花のことです。
① 無憂樹=アショーカ………釋尊誕生の花
佛誕生の花アショーカは一般には「無憂樹」と書いてムユウジュと発音しています。これはごく最近の傾向であり、歴史的には「ムウジュ」と発音していました。この花はインドや南方佛教国では当たり前に繁茂して開花しますが、寒さに弱く、日本や中国の露地では開花しない熱帯種ですので、従来ほとんど顧みられませんでした。最近わが国では一部の植物園などで温室栽培されるようになり、学名はsaraca asocaです。私は平成15年10月、この樹の苗木5本を入手し栽培しています。
ームユウジュはマメ科の常緑高木で、ふつう4~8メートルぐらいのものが多いが20メートルを超すものもあるという。樹皮は厚く灰赤褐色。葉は羽状複葉をなし、小葉はほとんど無柄または短い柄を有し、長楕円形~披針形で先は尖り、濃緑色でやや革質、表面はつやがある。花は細い枝先や太い枝に叢ってつき、オレンジ~濃黄色花弁は退化して存在しないが、瓢箪の上部が四裂して花弁のように見える。莢は偏平で長く、中に多くの種子を有する。(『佛教の三大聖木とその薬効』成瀬忠延著)
静岡県伊豆熱川の「熱川バナナワニ園」では以前から無憂樹を温室栽培しており、例年3月初旬ころオレンジ色の花を咲かせるので、この頃になると季節の話題として名古屋地区の民放でも放映され、またインターネットのホームページでもこれを紹介しています。
周知の通りお釈迦様はインドの北、現在のネパールの南部、ルンビニーの花園において誕生されました。(佛誕生は北伝と南伝で多少の相違があるが、宇井伯壽博士は北伝説とアショーカ王即位の年代との関係及び仏滅116年後にアショーカ王即位との考証から佛誕生を紀元前466年説を立てたが、中村元博士はこの説を継承しながら、アショーカ王即位の年代を宇井説から3年下げて二六八とし、佛の年代を紀元前463~383に修正した。現在この説が最も有力と見られる。)釋尊は当時インドとネパールの国境付近に定住していたシャカ族という小部族の族長スッドダーナ王ととマーヤー夫人(王妃)の間に生まれたのですが、この出生には悲しいエピソードが伝えられています。
シャカ国の隣国コーリヤの王都デーバダハ城から嫁いでスッドーダナ王の王妃となったマーヤー夫人との間には結婚後20年以上子供が授からなかったが、夫人がある夜、白象が右脇から胎内に入る夢を見て懐妊したと伝えられます。出生の地ルンビニー園は一1896年イギリスの考古学者フューラーによって発見されたアショーカ王の建立した一本の石碑によって、ここが釋尊降誕の地である事が証明されていますが、シャカ族の王都カビラブアストーに就いてはネパール側のティラウラコット説とインド側のピプラファー説とがあって確定していません。前者はルンビニーの北西23キロ、後者はルンビニーの西15キロ、ティラウラコットの南東25キロで、ネパール国境から一キロほど入った地点であり、いずれも徒歩で3時間から五時間ほどで到達する場所です。臨月近くなってマーヤー夫人は故郷のデーバダハ城に帰って出産するため、カピラエ城を出て休息のため立ち寄ったルンビニーの花園で、そこに咲き競っていたアショーカ(憂い無き樹=無憂樹)の花を愛で、一枝の花房に右手をさしのべたところ、その瞬間に玉のような男子を出産され、この王子がやがて釋迦族の牟尼(聖人)佛(覚者)となられますが、これが4月8日でした。マーヤー夫人が何の心配事もなく安らかに王子を出産したことから、後世この樹は「無憂樹=又はムユウジュ」と名付けられたと言われます。以上のお話では一見、何も悲しいこ
となどないようですが、実はその後急いでカピラエ城に引き返したマーヤー夫人は釋尊を産んで7日後に他界されます。これは一つには高齢出産であった事、釋尊が早産であった事などが考えられますが、それにも拘らずこの樹が「無憂樹=アショーカ」と名付けられた事が非常に興味深いです。こうしたことは釋尊が80歳でクシナガラに入滅されるとき、鍛冶屋の息子チュンダが釋尊に供養したキノコが原因で釋尊はひどい下痢を起こし、それがもとで亡くなられましたが、チャンダは釋尊に最後の供養をした人とだけ言われ、決して釋尊を死に追いやった人とは言われない事と対比すると佛教の価値観がよく理解されます。
二 菩提樹…………釋尊成道の花
その次の菩提樹には日本原産(中国原産)、西洋原産、インド原産の三種類があり、中国や我国ではそれぞれその成木が定着しています。むかしから日本各地の寺院の庭先などに植えられて親しまれている菩提樹は「シナノキ科」のもの。インド原産の菩提樹は「クワ科、イチジク目」であり、その成木は高さ30メートル以上にも及び、その木陰は実に涼しい林を形成し、佛陀ならずも坐禪をしたくなるような憩いの場所となります。私はカンボジアの「アンコール・トム」でこのことを実感しました。またインド原産種でもインド菩提樹とベンガル菩提樹があり、ネパールやインドではこの二種類の菩提樹を一対にして植える習慣が有るようです。釋尊がブッダガヤの菩提樹下で悟りを開いたのは「アシュブァッタ」という樹木で、その後に悟りの木(ボーディー・プリクシャ=菩提樹)と呼ばれたのがこのインド菩提樹ー学名Ficus religiosaです。名古屋の東山植物園にはインド菩提樹とベンガル菩提樹が一緒に植えられています。一見したところ大差ありませんが逆ハート型をして葉の先端が糸条に長く垂れ下がっているのがインド菩提樹、スペード型で先端に糸条の垂れ下がりのないのがベンガル菩提樹です。最近インド菩提樹の日本国内での露地栽培に成功した改良品種が販売されるようになり、私も定植してみましたが、厳冬期には枯れてしまい、やはり通常の路地定植は難しく、冬期は温室かま
たは室内で育てなければなりません。
③ 娑羅双樹=サーラ樹…………佛涅槃の花
次に娑羅樹は「沙羅双樹」と呼ばれ、『平家物語』冒頭の句に、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、
盛者必衰の理を表わす。
とあって非常に有名ですが、わが国では従来「ナツツバキ=沙羅」がこれに当てられ各地の古寺名刹に植えられています。この木は、
ツバキ科の落葉喬木。高10メートル。幹の肌は滑らかな黄褐
色でサルスベリに似る。葉は楕円形で、裏面に絹毛を生ずる。
六月頃、葉腋に大きな白花を一個ずつ開くが、開花後間もなく
散る。山地に自生するがしばしば庭樹とされる。シャラノキ。
(「広辞苑」)
とされ、一般には「シャラ」と呼ばれ、わが国では沙羅双樹=ナツツバキと連想されます。しかし釋尊がインド、クシナガラで亡くなられた沙羅の木は、これとは全く別な種類の樹木で、「フタバガキ」科に属し、一般には「インドサーラ樹」とか「サラノキ」などと呼ばれ、学名はShorea robustaです。最近はインド原産のこの苗木が国内の植物園の温室で育てられるようになりました。平成15年5月、滋賀県草津市立水生植物公園の温室でわが国としては初めて開花し、その後毎年浅黄色の可憐な花弁を着けます。私は平成16年10月、この「インドサーラ樹」の苗木を十本ほど入手して育て始めました。温室の中で20度Cから30度Cの温度と70パーセント程度の湿度を保ちながら、気長な仕事です。
④、佛の入滅と涅槃図に就いて
NHKは平成7年1月から毎月一度、五回にわたり「ブッダー大いなる旅路」を放映し、これに合わせて同名のダイジェスト版の冊子が刊行されました。その第一巻第四章「ブッダ生涯の旅路の果てに」に次の記述が有ります。
ブッダが入滅した時期については、経典には全く記されていない。ただ、ブァイシャリーで雨を過ごして、乾季になって旅を再開し、クシナガラに辿り着いたことを考えると、雨季明けから三か月程度の、一一月頃と推定される。ブッダがその下で入滅を迎えたという沙羅双樹(サーラ樹、その林の中の二本の木の間にブッダが身を横たえたことから、沙羅双樹と呼び習わされている)とは、フタバガキ科に属する落葉樹で北インドからネパール、アッサム、ヒマラヤ山麓地方にかけて分布し、2月の末から3月の初めにかけて、直径三センチほどの淡い黄色の花を咲かせる。現在、涅槃堂の正面入口の前には、ブッダのの入滅にちなんで、二本のサーラ樹が植樹されている。
南伝の『大般涅槃経=ブッダ最後の旅』によると80歳を迎えた釋尊はマガダ国の都である王舎城の霊鷲山から、生まれ故郷のカピラエ城に向けて最後の旅に出ました。途中現在のパトナーのあたりでガンガ河(ガンジス)をわたり、世界最初の共和国といわれるブエ ーサリーに行き、ここで最後の雨安居を送り、やがてガンダク河東岸の町や村を経てボーガ市に至り、ここからさらにガンダク河を渡りパーブァーの町でチュンダという鍛冶工の供養を受け、カクッター川で沐浴し、さらにヒラニャブァティー川を越えてクシナガラ郊外にある沙羅双樹の下に身を横たえたことが記されています。パーバーは当時のマッラ国の首都、クシナガラはこれに次ぐ街であったとされ、この間に釋尊の歩いた距離は実に三二〇キロにもなります。クシナガラは現在のウッタル・プラデシュ州の東、ビハール州に接するカーシアという町の南西三キロほどの所です。
中国、日本などに伝えられた北伝佛教によると釋尊は末羅国クシナガラの郊外にある跋堤河の辺にある沙羅双樹の下で病の床に着かれ、2月十15の夜半、ついに涅槃に入られたことになっています。わが国の各地にある寺院には「佛涅槃図」という大きな掛け軸が伝えられ、涅槃会には必ず本堂にお祀して供養しています。その絵は二月十五日の夜半を表わすために画面中央の最上部に満月が雲と共に描かれ、川の流れの辺に八本の沙羅樹があり、その中の半分は青々と茂った沙羅の木の梢に白い花が咲き誇っていますが、反対側の四本はいずれも枯渇して描かれています。これは白い沙羅の花弁を着けた八本の沙羅の木が釋尊の体を覆う傘となり、白鶴を思わせる白華林、鶴林を表わすとも、佛の死を悼んで林半分が枯れたとも言われます。中央には向かって画面左側を頭にして、立派な台座の上に座具を敷いたその上で金色の釋尊が横たわり、周囲を大勢の佛弟子やら王候貴族、庶民、各種の動物が集まって佛の涅槃を悲しんでいる様相が描かれます。また佛座の下では佛の涅槃に悶絶失神した阿難尊者や嘆き悲しむ赤い鬼神ー執金剛神、密迹力士、釋尊の死を悲しんで足をさする白髪の老婆、更に天上からは雲に乗って佛母麻耶夫人が阿那律尊者に先導され数人の侍女と共に涙を流す様が描かれ、さらに既に持ち主のいなくなった佛の錫杖と鉢が赤い布に包まれて、沙羅の枝に釣り下げられています。なお佛滅の時期は北伝では2月十15と確定していますが、南伝では佛の滅度は誕生、成道と同じウェーサカ月の夜となっており、それは概ね現今の5月にあたります。
恵林寺 関口 道潤
最近、「佛教の三大聖木」または「三大聖樹」というのが地味なブームを巻き起こしています。
「佛教の三大聖木」または「三大聖樹」と言われるものは、その言葉の響きからしても決して伝統的なものではなく、最近の一般人が造った新語です。漢字には古来儒教読みの「漢音」と佛教読みの「呉音」があり、その原則に従えばこれらは本来「聖木=しょうもく」、「聖樹=しょうじゅ」と発音すべきなのですが、インターネット用語としては「聖木=せいぼく」、「聖樹=せいじゅ」で定着しています。その「三大聖木」とはー無憂樹=アショーカ、菩提樹、娑羅樹=サーラ樹の三種類の樹木や花のことです。
① 無憂樹=アショーカ………釋尊誕生の花
佛誕生の花アショーカは一般には「無憂樹」と書いてムユウジュと発音しています。これはごく最近の傾向であり、歴史的には「ムウジュ」と発音していました。この花はインドや南方佛教国では当たり前に繁茂して開花しますが、寒さに弱く、日本や中国の露地では開花しない熱帯種ですので、従来ほとんど顧みられませんでした。最近わが国では一部の植物園などで温室栽培されるようになり、学名はsaraca asocaです。私は平成15年10月、この樹の苗木5本を入手し栽培しています。
ームユウジュはマメ科の常緑高木で、ふつう4~8メートルぐらいのものが多いが20メートルを超すものもあるという。樹皮は厚く灰赤褐色。葉は羽状複葉をなし、小葉はほとんど無柄または短い柄を有し、長楕円形~披針形で先は尖り、濃緑色でやや革質、表面はつやがある。花は細い枝先や太い枝に叢ってつき、オレンジ~濃黄色花弁は退化して存在しないが、瓢箪の上部が四裂して花弁のように見える。莢は偏平で長く、中に多くの種子を有する。(『佛教の三大聖木とその薬効』成瀬忠延著)
静岡県伊豆熱川の「熱川バナナワニ園」では以前から無憂樹を温室栽培しており、例年3月初旬ころオレンジ色の花を咲かせるので、この頃になると季節の話題として名古屋地区の民放でも放映され、またインターネットのホームページでもこれを紹介しています。
周知の通りお釈迦様はインドの北、現在のネパールの南部、ルンビニーの花園において誕生されました。(佛誕生は北伝と南伝で多少の相違があるが、宇井伯壽博士は北伝説とアショーカ王即位の年代との関係及び仏滅116年後にアショーカ王即位との考証から佛誕生を紀元前466年説を立てたが、中村元博士はこの説を継承しながら、アショーカ王即位の年代を宇井説から3年下げて二六八とし、佛の年代を紀元前463~383に修正した。現在この説が最も有力と見られる。)釋尊は当時インドとネパールの国境付近に定住していたシャカ族という小部族の族長スッドダーナ王ととマーヤー夫人(王妃)の間に生まれたのですが、この出生には悲しいエピソードが伝えられています。
シャカ国の隣国コーリヤの王都デーバダハ城から嫁いでスッドーダナ王の王妃となったマーヤー夫人との間には結婚後20年以上子供が授からなかったが、夫人がある夜、白象が右脇から胎内に入る夢を見て懐妊したと伝えられます。出生の地ルンビニー園は一1896年イギリスの考古学者フューラーによって発見されたアショーカ王の建立した一本の石碑によって、ここが釋尊降誕の地である事が証明されていますが、シャカ族の王都カビラブアストーに就いてはネパール側のティラウラコット説とインド側のピプラファー説とがあって確定していません。前者はルンビニーの北西23キロ、後者はルンビニーの西15キロ、ティラウラコットの南東25キロで、ネパール国境から一キロほど入った地点であり、いずれも徒歩で3時間から五時間ほどで到達する場所です。臨月近くなってマーヤー夫人は故郷のデーバダハ城に帰って出産するため、カピラエ城を出て休息のため立ち寄ったルンビニーの花園で、そこに咲き競っていたアショーカ(憂い無き樹=無憂樹)の花を愛で、一枝の花房に右手をさしのべたところ、その瞬間に玉のような男子を出産され、この王子がやがて釋迦族の牟尼(聖人)佛(覚者)となられますが、これが4月8日でした。マーヤー夫人が何の心配事もなく安らかに王子を出産したことから、後世この樹は「無憂樹=又はムユウジュ」と名付けられたと言われます。以上のお話では一見、何も悲しいこ
となどないようですが、実はその後急いでカピラエ城に引き返したマーヤー夫人は釋尊を産んで7日後に他界されます。これは一つには高齢出産であった事、釋尊が早産であった事などが考えられますが、それにも拘らずこの樹が「無憂樹=アショーカ」と名付けられた事が非常に興味深いです。こうしたことは釋尊が80歳でクシナガラに入滅されるとき、鍛冶屋の息子チュンダが釋尊に供養したキノコが原因で釋尊はひどい下痢を起こし、それがもとで亡くなられましたが、チャンダは釋尊に最後の供養をした人とだけ言われ、決して釋尊を死に追いやった人とは言われない事と対比すると佛教の価値観がよく理解されます。
二 菩提樹…………釋尊成道の花
その次の菩提樹には日本原産(中国原産)、西洋原産、インド原産の三種類があり、中国や我国ではそれぞれその成木が定着しています。むかしから日本各地の寺院の庭先などに植えられて親しまれている菩提樹は「シナノキ科」のもの。インド原産の菩提樹は「クワ科、イチジク目」であり、その成木は高さ30メートル以上にも及び、その木陰は実に涼しい林を形成し、佛陀ならずも坐禪をしたくなるような憩いの場所となります。私はカンボジアの「アンコール・トム」でこのことを実感しました。またインド原産種でもインド菩提樹とベンガル菩提樹があり、ネパールやインドではこの二種類の菩提樹を一対にして植える習慣が有るようです。釋尊がブッダガヤの菩提樹下で悟りを開いたのは「アシュブァッタ」という樹木で、その後に悟りの木(ボーディー・プリクシャ=菩提樹)と呼ばれたのがこのインド菩提樹ー学名Ficus religiosaです。名古屋の東山植物園にはインド菩提樹とベンガル菩提樹が一緒に植えられています。一見したところ大差ありませんが逆ハート型をして葉の先端が糸条に長く垂れ下がっているのがインド菩提樹、スペード型で先端に糸条の垂れ下がりのないのがベンガル菩提樹です。最近インド菩提樹の日本国内での露地栽培に成功した改良品種が販売されるようになり、私も定植してみましたが、厳冬期には枯れてしまい、やはり通常の路地定植は難しく、冬期は温室かま
たは室内で育てなければなりません。
③ 娑羅双樹=サーラ樹…………佛涅槃の花
次に娑羅樹は「沙羅双樹」と呼ばれ、『平家物語』冒頭の句に、
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、
盛者必衰の理を表わす。
とあって非常に有名ですが、わが国では従来「ナツツバキ=沙羅」がこれに当てられ各地の古寺名刹に植えられています。この木は、
ツバキ科の落葉喬木。高10メートル。幹の肌は滑らかな黄褐
色でサルスベリに似る。葉は楕円形で、裏面に絹毛を生ずる。
六月頃、葉腋に大きな白花を一個ずつ開くが、開花後間もなく
散る。山地に自生するがしばしば庭樹とされる。シャラノキ。
(「広辞苑」)
とされ、一般には「シャラ」と呼ばれ、わが国では沙羅双樹=ナツツバキと連想されます。しかし釋尊がインド、クシナガラで亡くなられた沙羅の木は、これとは全く別な種類の樹木で、「フタバガキ」科に属し、一般には「インドサーラ樹」とか「サラノキ」などと呼ばれ、学名はShorea robustaです。最近はインド原産のこの苗木が国内の植物園の温室で育てられるようになりました。平成15年5月、滋賀県草津市立水生植物公園の温室でわが国としては初めて開花し、その後毎年浅黄色の可憐な花弁を着けます。私は平成16年10月、この「インドサーラ樹」の苗木を十本ほど入手して育て始めました。温室の中で20度Cから30度Cの温度と70パーセント程度の湿度を保ちながら、気長な仕事です。
④、佛の入滅と涅槃図に就いて
NHKは平成7年1月から毎月一度、五回にわたり「ブッダー大いなる旅路」を放映し、これに合わせて同名のダイジェスト版の冊子が刊行されました。その第一巻第四章「ブッダ生涯の旅路の果てに」に次の記述が有ります。
ブッダが入滅した時期については、経典には全く記されていない。ただ、ブァイシャリーで雨を過ごして、乾季になって旅を再開し、クシナガラに辿り着いたことを考えると、雨季明けから三か月程度の、一一月頃と推定される。ブッダがその下で入滅を迎えたという沙羅双樹(サーラ樹、その林の中の二本の木の間にブッダが身を横たえたことから、沙羅双樹と呼び習わされている)とは、フタバガキ科に属する落葉樹で北インドからネパール、アッサム、ヒマラヤ山麓地方にかけて分布し、2月の末から3月の初めにかけて、直径三センチほどの淡い黄色の花を咲かせる。現在、涅槃堂の正面入口の前には、ブッダのの入滅にちなんで、二本のサーラ樹が植樹されている。
南伝の『大般涅槃経=ブッダ最後の旅』によると80歳を迎えた釋尊はマガダ国の都である王舎城の霊鷲山から、生まれ故郷のカピラエ城に向けて最後の旅に出ました。途中現在のパトナーのあたりでガンガ河(ガンジス)をわたり、世界最初の共和国といわれるブエ ーサリーに行き、ここで最後の雨安居を送り、やがてガンダク河東岸の町や村を経てボーガ市に至り、ここからさらにガンダク河を渡りパーブァーの町でチュンダという鍛冶工の供養を受け、カクッター川で沐浴し、さらにヒラニャブァティー川を越えてクシナガラ郊外にある沙羅双樹の下に身を横たえたことが記されています。パーバーは当時のマッラ国の首都、クシナガラはこれに次ぐ街であったとされ、この間に釋尊の歩いた距離は実に三二〇キロにもなります。クシナガラは現在のウッタル・プラデシュ州の東、ビハール州に接するカーシアという町の南西三キロほどの所です。
中国、日本などに伝えられた北伝佛教によると釋尊は末羅国クシナガラの郊外にある跋堤河の辺にある沙羅双樹の下で病の床に着かれ、2月十15の夜半、ついに涅槃に入られたことになっています。わが国の各地にある寺院には「佛涅槃図」という大きな掛け軸が伝えられ、涅槃会には必ず本堂にお祀して供養しています。その絵は二月十五日の夜半を表わすために画面中央の最上部に満月が雲と共に描かれ、川の流れの辺に八本の沙羅樹があり、その中の半分は青々と茂った沙羅の木の梢に白い花が咲き誇っていますが、反対側の四本はいずれも枯渇して描かれています。これは白い沙羅の花弁を着けた八本の沙羅の木が釋尊の体を覆う傘となり、白鶴を思わせる白華林、鶴林を表わすとも、佛の死を悼んで林半分が枯れたとも言われます。中央には向かって画面左側を頭にして、立派な台座の上に座具を敷いたその上で金色の釋尊が横たわり、周囲を大勢の佛弟子やら王候貴族、庶民、各種の動物が集まって佛の涅槃を悲しんでいる様相が描かれます。また佛座の下では佛の涅槃に悶絶失神した阿難尊者や嘆き悲しむ赤い鬼神ー執金剛神、密迹力士、釋尊の死を悲しんで足をさする白髪の老婆、更に天上からは雲に乗って佛母麻耶夫人が阿那律尊者に先導され数人の侍女と共に涙を流す様が描かれ、さらに既に持ち主のいなくなった佛の錫杖と鉢が赤い布に包まれて、沙羅の枝に釣り下げられています。なお佛滅の時期は北伝では2月十15と確定していますが、南伝では佛の滅度は誕生、成道と同じウェーサカ月の夜となっており、それは概ね現今の5月にあたります。