一宮市恵林寺のブログ

愛知県一宮市恵林寺と関口道潤に関する坐禪会の提唱その他を紹介します。


龍樹尊者


第十四章
 第十四祖。龍樹尊者が、迦毘摩羅尊者とともに龍王の招待に赴いたとき、如意珠を受けとった。龍樹が質問する。「この珠は世の中にめったにない宝物です。是れは世間的評価によって尊いのですか、本来の価値によって尊いのですか。迦毘摩羅尊者が答えた。「君は世間的評価と本来の価値のみを知っていて、この球のそうした人間の判断を超えた世界があることを知らないようだ。またこれが珠でないことも知らないようだ」と。龍樹はそれを聞いてさらに納得した。
 
 第十四。龍樹尊者。因みに十三祖龍王の請に赴き、如意珠を受く。師問て曰く、此の珠は世中の至宝なり。是れ有相なりや、無相なりや。祖曰く、汝只だ有相無相を知って。此の珠の有相に非ず、無相に非ざることを知らず。また未だ此の珠の珠に非ざるを知らずと。師聞て深く悟れり。(本則並びに現代語訳)

 注記―【龍樹】〔梵 Nāgārjuna〕 那伽 門+於 喇樹那150~250年頃のインド大乗仏教中観派の祖。「第二の釈迦」ともいわれる。南インドのバラモンの出身。諸学に通じ、空の思想を基礎づけ、八宗の祖師と呼ばれる。著書に『中論頌』『十二門論』『大智度論』『十住毘婆沙論』など。伝は『付法蔵因縁伝』、鳩摩羅什訳の『龍樹菩薩傳』、『摩訶摩耶經』などに述べられている。マウリヤ朝滅亡(前180年)以来、インドは約500年の分裂状態が続いたが、四世紀に入り、マウリヤ朝と同じマガダを拠点としたグプタ朝が起こった。その創始者もマウリヤ朝と同じ、チャンドラグプタ一世を名乗り都も同じパータリプトラ。チャンドラグプタ一世320年にガンジス川流域を統一、第二代のサンドラグプタは北インドをほぼ統一し、デカン高原にも遠征した。この期間を埋めるようにデカン高原西部にアーンドラ朝が勢力を伸ばした。サータヴァーハナ朝(Sātavāhana、とも呼ばれ、紀元前三世紀~紀元前一世紀? - 後三世紀初頭)に当たる。デカン高原<を中心とした中央インドの広い範囲を統治。パックス・ロマーナ期のローマ帝国と盛んに海上交易を行ったい。この王たちは、バラモン教を信仰したが、仏教やジャイナ教も発展した。第十三祖韋羅尊者、次の龍樹尊者が活躍したのが、この地方であり、この時期に当たっている。

 龍樹尊者は西インドの人であり、龍猛または龍勝という。十三祖迦毘摩羅尊者が、この時、出家し正法を伝えて、西インドにやってきた。その国に雲自在王子という者があり、十三祖の高名を聴いて宮中に招いて供養した。尊者が語った。仏陀世尊は「出家修行者は国王大臣権勢の家に近づいてはならないと教えている」と。王子は答えた。それならば我が国の北に大きな山があり、その山中に一つの石窟があります。あなたはそこで修行されてはいかがですか」と。尊者は「それは好都合だ」と答え、意向に従い、その山に向かって進むと、やがて一匹のニシキヘビに出会った。尊者はそれを見過ごして更に進むと蛇は尊者の体に巻き付いて離れない。そこで尊者は蛇に対して三帰戒を授けたところ、蛇はどこかへと去った。尊者が石窟に着いたその時、一人の老人に出会った。白い服を身に着けて合掌して尊者を礼拝した。尊者が「君はどこに住んでいるのか」と尋ねると、老人は「私は以前、仏弟子となり、ひたすら静けさのみを願って山林に隠棲しました。そこへ新米の仏弟子がやってきて、何回も説法を求めたので、私はその回答が億劫になり、怒りや恨みの心を起こしたため、命が終ってニシキヘビの身となりました。そしてここの石窟に住むことすでに一千年を経過しました。たまたま貴方様がこちらにおいで下さり、佛戒をお授け戴きましたので、ここでお礼を申し上げたました」と答えた。尊者は質問する。「この山には君以外の人間が住んでいるか。それは何人もの仲間なのか」。老人が答える。「ここから更に北に行くこと五キロ程の所に大きな木があり、そこには五百人の龍族が身を潜めています。この大樹の王を龍樹といい、龍族のために常に説法をしています。私もいつもそれを拝聴しています」。尊者はその話を聞いて、弟子たちを連れてその大樹の許に行った。そこで龍樹は尊者を出迎えて挨拶した。「こんな深い山奥のニシキヘビやコブラがうようよしている所へ、、貴方のように尊い仏法の指導者がわざわざおいで戴いて恐縮です」と。尊者は挨拶に答える。「私は何も尊い仏道の指導者ではない。ただここに賢い人が住んでいると聞いて会いたかっただけだ」。そこで龍樹は心の中で「この人は法門の悟りを得ているのだろうか?。また真の仏道を継承した指導者なのだろうか?」と考えた。尊者は龍樹の疑問をすぐさま察知して語った。「君が心の中で何を考えているのかは、手に取るように理解した。そんなことより、君がすべきことはただ一つ、出家して仏弟子となることだ。そのためには私が立派な仏道の指導者か否かを考える暇はないはずだ」と。それを聞いた龍樹は自らの至らなさを反省し、改めて尊者について出家得度を願い出た。尊者は直ちに出家得度を与えたところ、居合わせた龍族五百人も同じように出家得度を受けた。これ以後、龍樹たち五百人の龍族は四年間、尊者の許で修行を続けたが、そのことが広く知られて龍族の王が十三祖迦毘摩羅尊者を王宮に招待して、如意珠を差し上げた。(機縁現代語訳)

 
師は西天竺国の人也。龍猛亦た龍勝と名く。十三祖当時度を受け法を伝ふ。西印土に至るに、彼れに太子有り。雲自在と名く、尊者の名を仰ぎ宮中に請して供養す。尊者曰く、如来に教えあり。沙門は国王大臣権勢の家に親近するを得ずと。太子曰く、いま我が国城の北に大山あり。山中に一石窟有り。師、禪に可なり。これに寂せしや否や。尊者曰く、諾なり。即ち彼の山に入るに数里を行く。一の大蟒に逢へり。尊者直に進んで顧みず。蟒来て遂に尊者の身を盤繞す。尊者因みに三帰依を与授す。蟒聴き訖て去く。尊者まさに石窟に至らんとするに、復た一老人有り、素服にて出で、合掌問訊す。尊者曰く、汝何んの所にか止まる。老人答て曰く、我むかし嘗て比丘となり、多く寂静を楽ひ、山林に隠居す。初学の比丘あり。数々来て請益す、而して我れ応答に煩ひ、瞋恨の想を起こす。命終り墮して蟒身となり、是の窟中に住すること、今すでに千載なり。適々尊者に遇ひ、戒法を聞くことを獲たり。故に来て謝するのみ。尊者問て曰く、此の山さらに何人の居止する有るや。曰く、此より北に去くこと十里に大樹あり、五百の大龍を蔭覆す。其の樹王を龍樹となづく。常に龍衆の為に説法す。我れまた聴受するのみ。尊者遂に徒衆とともに彼に詣る。龍樹出て尊者を迎えて曰く、深山孤寂にして龍蟒の居する所、大聖至尊何ぞ神足を枉げらるや。尊者曰く、われは至尊に非ず、賢者を来訪するのみ。龍樹默念として曰く、この師、決定性を得て明道眼なること否や、是れ大聖にして真乗を継ぐや否やと。尊者曰く、汝、心語すると雖も。吾れすでに意知す、但だ出家を弁ぜよ、何ぞ吾れの聖不聖を慮ることあらんや。龍樹聞き已て、悔謝し出家す。尊者即に度脱を与ふ、及び五百の龍衆俱に具戒を受く。然しより尊者にしたがひて四年をふるに、十三祖龍王の請にをもむきしに、如意珠をたてまつる。(機縁)

 注記ー
この機縁は『五灯会元』の迦毘摩羅章からの引用と思われる。この地方は那迦族(龍族)と呼ばれる原住民が多く住む場所であり、その具体的場所は明確でないが、一説には現在のマハラシュトラ州の都市ナグプール周辺とされ、現にナグプール郊外のラムテク地区に「龍樹菩薩大寺 Bodhisattva Nāgārjun Mahā vihar」が存在する。蟒は通常大蛇を意味するがここではニシキヘビと訳し、龍はコブラと訳しているが、龍はそれ以外にも那伽族(龍族)を指しているとも考えられる。大蟒―ニシキヘビ・ボアなどの大蛇。龍―中国では古来から想像上の神獣。梵語のナーガ Nāgaはインド神話に起源を持つ、蛇の精霊、蛇神。仏陀が悟りを開く時に守護したとされ、仏教では龍王とされ、仏法の守護神となっている。また仏陀の異称であり、多くはコブラを意味する。元来コブラを神格化した蛇神であったはずだが、コブラの存在しない中国においては漢訳経典において「龍」と翻訳され、中国に元来からあった龍信仰と習合し、日本にもその形式で伝わっている。

 龍樹尊者が質問した。「この球はこの世ではめったにない素晴らしい宝です。」・・・・乃至龍樹はこれを聞いて深く納得した。そこで第十四祖となった。
 龍樹は元々仏教以外の学問を究めていたので、その神通力によって何回も竜宮城に赴き、たくさんの仏教経典を学習していた。しかも龍樹はその経典の題名を見ただけで、すぐにその経の精髄を読み取り、五百人の龍族の徒弟を教化していた。世に言う難陀龍王・跋難陀龍王などはみな仏に近い覚りを開いた菩薩であり、それぞれ皆仏祖の委嘱を受けて、身の回りに重要な経典を備えていた。だから私たちの世界が仏の教法が無くなろうとしても、その竜宮には必ず備えられている。龍樹はこのように素晴らしい神通力を具えており、いつも大龍王と問答するために往来をしていたが、しかしそれは真実の仏道修行ではなく、外道の分際であった。しかし一たび迦毘摩羅尊者
の弟子となり、仏の法門を継承して法門の継承者となった。そこで世間の人は「龍樹はただ祖師門下第十四祖であるばかりか、「八宗の祖」といわれるように、真言宗も天台宗もみな龍樹の門流であり、陰陽道も養蚕の技術もすべて龍樹から出ている」と思っている。確かに以前多くの学芸を究めていたが、第十四祖となってからは、それらの総てを捨ててしまわれた。龍樹尊者の教えを仰ぐ各種の弟子たちは、龍樹こそ自分の祖師と敬い、自分も龍樹の末流と称しているが、それは物の道理をわきまえず、宝石と川石とを混同している。悪魔の徒党であり、人間の心がない。龍樹の仏法はただ迦那提婆尊者のみが正しく継承しており、それ以外はすべて捨てられた流儀なのだ。この一段の物語から理解できる。五百人の龍族を教化しても、そこに迦毘摩羅尊者がやってくれば、自ら出迎えて礼拝し、この人はどんな人なのかを確認しようとした。その時迦毘摩羅尊者はあえて自分の素性を明かさなかった。そこで龍樹は内心に考えた。「この人は真実の法門を教えてくれる聖人なのだろうか」と。その時迦毘摩羅尊者は「君はただ出家修行だけを考えればそれでよい。私が優れた指導者か否かを考えるべきでない」と告げたので、龍樹は自らの非を愧じて遂に第十三祖迦毘摩羅尊者の法の継承者となった。
 この物語で私たちははっきりさせねばならない。「この宝石は人の世の最高品ですが、この宝石自体に価値がありますか、それとも別な意味での価値がありますか」との質問となった。だが龍樹はその解答は宝石自体の価値でもなければ、それ以外の価値でもないことを知っていた。なぜならば姿があるものも、姿がないものも、それらはすべて「人間の凡夫的思いがそれを形作っているだけなのだ」と知っていたからだ。それ故に迦毘摩羅尊者は教えを開いたというこのお話を・・・・。
 それがたとえ人の世の宝石だとしても、物の道理を言えば、宝石自体の価値でも、それを超えた価値でもない。それはただの宝石なのだ。まして古来珠については「力士の額にかかる珠」、「輪王の髻に包みし珠」、「龍王の珠」、「醉人衣裏の珠」などが言われているが、それは個人の感想ではなく、主観でも客観でもない。しかしここでいう球はいずれも常識世界の問題であり、仏道が問題とする珠ではない。まして仏法では珠が珠でないことを説いているので、それを理解できないでいる。だから精細に観察しなければならない。玄沙和尚は「すべてが珠なのだから、それを珠と決める個人は存在しない」と言い、また「全世界が、一つの輝いた珠だ」とも言っている。人間や天人の考えで判断してはならない。いや退いてそれが人間世界の珠だとしても、自分と関係ないものではなく、それを珠と認めている自身が珠として存在させている。だから天上の帝釈天はこれを如意宝珠とも摩尼宝珠とも呼んで大切にしている。病んだ時にこの球に触れれば病が癒え、心配事のある時もこの球を大切にすれば自然と乗り越えられる。神通力や環境の転換もこの球の力が働いてくる。昔の転輪聖王が持つ七つの宝にも摩尼宝珠があり、すべての宝物はみなこの球から始まり、これを愛用することは限りがない。このように人間と天上では果報によって優劣があり、差異が存する。人間界の如意珠は米粒のことであり、これを宝珠と呼ぶ。天上界の宝珠に擬えて名付けられたが、ここではかけがえのない宝珠なのだ。また仏の舎利は仏法が滅びるとき如意珠となり、雨嵐となり、米粒を育成して世の生き物を助けてくれる。それは仏の姿となり、米粒となり、あらゆる物事として現れ、一粒のものと現れることがあっても、自分自身の心が作ったものであり、五尺の体ともなり、三つの頭を持った神像ともなり、種々な動物の形となり、あらゆる物事が多種広汎なものとなるが、大切なことは先ほどの心の珠をはっきりさせなければならない。昔の修行者のように静けさだけを希望し、山林に隠遁してはならない。昔もこのような誤りがあり、今でさえ同じように道を得ない誤りがある。それに比べ今ここに何人もの仲間とともに肩を交えて修行問答するのは決して静かで穏やかではない。かといって一人で山林に隠遁して静かに坐禅修行をしようと言って、そのような行いをすれば、たいてい誤った道に進み、独りよがりとなる。それはなぜかというと物の道理をわきまえず、ただ自分さえよければよいという自己主義となるからだ。もう一つ指摘しよう。大梅法常禅師は松林の中で、頭に鉄塔を載せて坐禅し、潙山霊祐禅師も深い山の雲や霧のせまるところで虎や狼とともに修行したのだから、自分たちもそのように修行すべきだと主張する者もある。これこそ笑いものだ。昔の禅者は本物の修行により、正しい法の継承者から法灯を受け継ぎ、しばらくの間、その後継者を待つ間、自身の修行を堅固なものとするために、あのような修行をしたのだ。そもそも大梅は馬祖道一禅師の証明を受け、潙山は百丈懐海禅師から法灯を受け継いだ後のことだった。現在のわれわれが倉卒に考えてはならない。隠山清聳禅師や羅山道閑禅師など古の禪者も、ともに道を得て法を伝える前に一人で山籠もりをしたことはない。みな徳行をその時代に響かせ、名前を後世に記録されるよく法眼を備えた大聖であり、道を確かにした真の道人なのだ。それなのに、今の我らは良い指導者に巡り合おうとせず、修行すべき道場をも訪ねようとしないで、山奥に入って山猿と同じようにしようとする。それは無道心の甚だしきというべきだ。もし道の眼が曇り、自分一人の覚りを得ようとする者は、声聞縁覚という、芽の出ない種のようなものだ。芽の出ない種とは焼けてしまった種で、自ら仏心を閉ざしているのだ。しかしながら君たちここの門下生は修行道場で修行工夫し、良き指導者の導きに会い、長く経験を積み、最も大切な自己の生き方を確立せしめて、更に根を深く張り巡らし、帯をしっかりと締めなおさなければならない。これは永平寺道元禅師の委嘱であり、ここの修行者は当然これを大切にしなくてはならない。これは高祖様が修行者の誤った方向を改めさせるための教えなのだ。それだけではない。先師孤雲懐弉禅師は (瑩祖初めに孤雲祖に隨侍したまふ。故に先師と曰ふ。末にも又これ在り);。  「我が弟子は独住すべからず。たとひ得道せりとも叢林に修練すべし。況やまた参学の輩は一向独住すべからず。是の制に背せん者は吾が門葉にあらず。」と示された。
 また円悟克勤禅師は「むかしの禪者は得法の後、山奥の茅で覆った小屋や、石窟に赴き、足の折れた五徳で炊飯して過ごすこと十年、二十年の間、大いに人里を忘れ、俗塵を離れたが、今となってはそれを望むことが無くなった。」と述べ、黄龍恵南禅師は「自分だけが独り山林の中で老いさらばえるより、修行者を叢林に迎えることが大切だ。」とも語っている。このように近代の偉大な仏道指導者はみな独住を好むことはなかった。まして人の機根はむかしの人よりかなりの部分で劣っている。だから叢林で仲間とともに修行に努めるべきだ。昔の禪者がそうなのだとしたら、今の我らがいたずらに静けさを好んでいたら、新参の修行者が来て、法門を尋ねても、回答すべきを回答せず、あまつさえ腹を立てて叱りつける。それこそその人が身も心も整っていないと知れる。指導者を離れ、一人静かに安穏を守るのは、たとい龍樹のように広大な説法をしても、それは業突く張りの人でしかない。君たちは幸いにも前世で善根を積み重ねているからこそ、ここに来て、正しい仏の法門を聞く事が叶ったのだ。大切なのは権勢の人に近づかず、また独住閑居を願うことなく、ただ日々の修行生活に専念し、法に生かされる我が身は何かをはっきりさせることだ。これこそ仏陀世尊の本当の修行道なのだ。今日先ほどからの物語を締めくくるのに出来の悪い詩がある。聞いてくれるかな。

 師問て曰く、此の珠は世中の至宝なり。乃至師聞て深悟す。終に第十四祖に列す。
 夫れ龍樹は異道を学し神通を具す。常に龍宮に行き、七佛の経書を見る。その題目を見てすなはち経の心をしり、よのねつに五百の龍を化す。いはゆる難陀龍王・跋難陀龍王等は皆これ等覚の菩薩なり。悉く前佛の付囑をうけ、諸経を安置したてまつる。今大師釋尊の経教、人天すでに化緣つきん時も、悉く龍宮にをさまるべし。是の如き大威神ありて、尋常大龍王と問答往来すといへども、これ真実の道人にあらず。只だ是れ外道を学するのみなり。一度十三祖に帰せしよりこのかた、まさに是れ大明眼なり。然るを人人皆おもはく。龍樹は只だ是れ祖門の十四祖なるのみにあらす、またこれ諸家の祖師たる故に、真言も是をもて本祖とす。天台も是をもて根本とす。陰陽蠶養等も是をもて根本とす、これみなむかし諸芸を習しかども、祖位に列してのちは捨られし。諸芸弟子われも龍樹は即ち本祖なりといへり。是すなはち龍樹なりとおもはん。正邪を混乱して、玉石を弁ぜざる、魔党畜類なり。ただ龍樹の佛法、迦那提婆のみすなはち正伝なり。余は皆すてられし諸宗なりと。今の因をもてしるべし。五百の龍衆を接化すといへども。猶お迦毘摩羅尊者至るとき、出てむかひて礼拝し、こゝろみんとす。尊者しばらく隠密して正宗をあらはさず。龍樹默念して曰く、是れ真乗をつげる大聖なりやと、心中にはかりみんとす。祖曰く。但だ出家を弁ぜよ、何の吾の不聖を慮かるや、といひしかば、龍樹慚愧して、十三祖につぎ来る。今の因緣をもて明むべし。曰く此の珠は世中の至宝なり、是の珠有相なりや、無相なりや。実に龍樹さきよりしれり。是れ有相なりとやせん、無相なりとやせん。頗る有無の所見を動執するなり。これによりて祖示して云云。実にたとひ世間の珠なりといへども。真実を論せん時、これ有相無相にあらず、只これ珠なり。いはんや力士の額にかかる珠、輪王の髻に包みし珠。龍王の珠、醉人衣裏の珠。悉く他の所見にわたらず。有相無相とも弁じがたし。然れども適来の珠は、悉く世間の珠也。全く是れ道中の至宝にあらず。何況や此の珠又珠にあらざることをしることあたはず。実に精細にすべし。玄沙曰く、全体是れ珠、誰をして知らしめん。又曰。尽十方世界、是一顆の明珠と。実に是れ人天の所見をもて弁ずべきにあらず。然れどもたとひ世間の珠なるも、全く外より来るにあらず。悉く人人の自心より発現し来る、故に天帝釈は是を如意珠宝とも、摩尼珠宝とも受用し来る。病ある時も此の珠をおけば病すなはちいゆ。憂ある時も此の珠を戴だけば憂おのづから除く。神通変現を現することもこの珠による。輪王七宝中に摩尼宝珠あり。一切の珍宝悉くこれより出生す、受用するに無量なり。かくのごとく人天の果報したがひて勝劣あり、差別あり。人間の如意珠とは米粒をもなづけたり。是れを珠宝とす。是れ天上の珠に比するに造作建立とす。然も是を呼て珠とす。又如来の舍利佛法滅する時如意宝珠となり、一切をふらし、米粒ともなりて衆生をたすくべし。たとひ佛身と現し、米粒と現じ、萬法とあらはれ、一顆と顕はるるとも、自心あらはれて五尺の身となり、三頭の形となり、被毛戴角の形となり、森羅萬像品品となる。然も即ちすべからく彼の心珠を弁ずべし。昔の比丘の如く寂静をねがひ、山林に隠居することなかれ。実に是れ前来も是の如く未得道なるあやまりあり。近来も此の如く未得道なる錯りあり。猶諸人と肩をまじへ参来参去すること、閑静ならざる故に。独り山林に居して、しづかに坐禪行道せんと、かくのごとくいひて、ををく山谷に隠居し、みだりに修錬する類、ををくはもて邪路に趣き来る。ゆへいかんとなれば。其の真実をしらず、徒に自己を先とするゆへなり。
 又曰く、大梅常禪師も鉄塔をいただき、松煙の中に坐す。潙山大円禪師も虎狼をともとして、雲霧の底に修す、我等もかくの如く修習すべしと。実に笑ひぬべし。古人悉く得道して、正師に印を受け、しばらく道業を純熟せしめん為に、機緣をまつ間、如是修せしなりと知るべし。大梅は馬の正印を受け、潙山は百丈の伝付をゑし後なり。愚見のおよぶところにあらす。隠山羅山等の古人、いづれも未得道の先に独住せしことなし。徳行を一時にふるひ、名を末代に留る、明眼の大聖得道の真人なり。徒に参ずべきを参ぜず、至るべきに至らず、山谷に居して獼猴の如くならん、もつともこれ無道心の甚しきなり。若し道眼清明ならず、自調修錬する者は声聞縁覚となり、虚く敗種の者たらん。いはゆる敗種といふは、やけたるたねなり、佛種を断ず。然るに諸人者子細に叢林に修錬し、長時に知識に参尋して、大事悉く明め。自己まさに明弁しをはり、其後しはらく根を深くし、帯をかたくせんことは、曩祖の付囑なりといふとも、殊に此の一門の中、永平開山独住を誡めらる。是れ人を邪路に趣むかせじとなり。殊に先師「瑩祖初て孤雲祖に隨侍す。故に先師と曰ふ。末又在之。」二代の示に曰く、我が弟子は独住すべからず、たとひ得道せりとも叢林に修錬すべし。況やまた参学の輩は一向独住すべからず。是の制に背せん者は吾が門葉にあらずと。又円悟禪師曰く、古人得旨の後、深山茆茨石室に向い。折脚鐺兒に飯を煮て喫す、十年二十年大いに人世を忘れ、永く塵寰を謝すれども、今時敢て望まずと。又黄龍南曰く、自ら道を守り、山林に在て老かがまらんより、何ぞ衆を叢林に引入するにはしかん。近代諸大宗匠みな独住を好まず。況や人の根器ことごとく昔の人よりも劣なり。ただ叢林にありて修錬弁道すべし。古人も此の如し。猶を用心疎なるによりて、猥りに寂静を好みしかば、新学の比丘来て請益せしに、答ふべきを答へず。瞋恚を発しき。実にしりぬ、其の身心未調なることを。知識に離れ、閑居独住せんこと。たとひ龍樹の如く説法すといへども。唯だ是れ業報の類なるべし。諸人厚植善根なるによりて、正しく如来の正法を聞きえたり。いはゆる不親近国王大臣と、独住閑居を好楽せず。ただ道業を精進し、專ら法源を透脱すべし。是れまさに如来の真口訣なり。今日適来の因緣を挙揚するにすなはち卑語あり。聞かんと要すや。(提唱現代語訳及び提唱)         

    一つの光が暗く広い場所を照らしている。
    それは、確実に仏の生命となっている。
        孤光霊廓として常に昧とする無し 如意摩尼分照し来る               孤光霊廓常無昧 如意摩尼分照来(偈頌及び現代語訳)

 注記―八大竜王
は天龍八部衆に所属する龍族の八王。法華経(序品)に登場し、仏法を守護する。 霊鷲山にて十六羅漢を始め、諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大龍王も幾千万億の眷属の龍達とともに釈尊の教えに耳を傾けた。古代インドではナーガ Nāga という半身半蛇の形であったが、中国や日本を経て今の竜の形になった。難陀龍王Ānanda、訳して:歓喜。難陀と跋難陀は兄弟竜王で娑伽羅竜王と戦ったことがあった。跋難陀(Upananda) 訳して歓喜。難陀の弟。難陀龍王と共にマガダ国を保護して飢饉なからしめ、また仏陀降生の時、雨を降らして灌ぎ、説法の会座に必ず参じ、仏陀入滅の後は永く仏法を守護した。娑伽羅 -Sāgara) 訳して:大海。龍宮の王。和修吉 - Vāsuki) 「婆素鶏」とも漢語に音訳された。梵語 Vāsukiの意味は、「宝Khajānā)」とほとんど同じであり、「宝有」、「宝称」とも別称された。陽の極まりである「九」、数が極めて大きく強力であるという意で「九」を冠し九頭とされ、日本では「九頭龍王、「九頭龍大神」等と呼ばれる。徳叉迦-Takṣaka)。 訳して:多舌、視毒。この龍が怒って凝視すると、その人は息絶えるとされる。阿那婆達多 -Anavatapta訳して:清涼、無熱悩。阿耨達龍王ともいう。ヒマラヤの北にあるという神話上の池、阿耨達池(無熱悩池)に住し、四方に大河を出して人間の住む大陸閻浮提を潤すと謳われた。龍王は菩薩の化身として尊崇せられた。摩那斯-Manasvin)。訳して:大身、大力。阿修羅が海水をもって喜見城を侵したとき、身を踊らせて海水を押し戻したという。優鉢羅Utpalaka。訳して:青蓮華<(Utpala)、青蓮華龍王。青蓮華を生ずる池に住むという。「青蓮華」は、漢訳仏典で「優鉢華」、「優鉢羅華」などと音写される。中国で「青蓮宇(qinglianyu)」は仏教寺院の別称。
 力士眉間金剛珠之譬―力 士 の額にあ った 金剛珠が互 い に競 っているうちに頭部をぶつけあって怪我をしてし まう。額を怪我 した力士は医 師の もとに行き治療を受けるが治 療の最 中に医 師か ら金剛珠 の所在を問われ力士が分からない、そこで医師 に 「お前 の金 剛 珠は[怪 我 した傷の 中にめ り込んで肉と血と膿 の中で輝 き続け ている」 と 知らされる。如来蔵は難見ではあるが、煩悩を滅したとき金剛珠である如来蔵が出現するという譬 え話。(大般涅槃經卷第七) 輪王の髻に包みし珠―「転輪聖王が諸国を降伏しようとしたとき、戦に功有る者を見て、賞賜するのに田宅聚落城邑を与へ、或は衣服厳身の具を与へ、或は種種の珍宝金銀琉璃車磲馬腦珊瑚虎珀象馬車乗奴婢人民を与えても、唯だ髻中の明珠のみは以てこれを与えないこと。人には皆王の頂上に此の一珠=仏性が有ることの譬え。 (法華経卷第五安樂行品第十四)  龍王の珠―荘子「列御冠篇」第三二 貧家の子が淵にもぐって千金の価の珠を取って来る 。父 は「千金の珠は深い淵の底、黒龍の領の下にあるものだ。たまたま黒龍が眠っている時だったので、珠を取れたのだ。黒龍が目覚めれば、お前は喰われてしまっただろう」と言い、石で珠を砕くよう命じた故事。酔人衣裡之珠―妙華経卷第四五百弟子受記品第八の語。「ある人が親友の家へ行って酒に酔って眠ってしまった。親友は所用があり、無価の宝珠をその人の衣の下に縫いつけて出てゆき、その友はそれを知らずに他国に流浪して貧しく暮らしていた。その後再会した親友から、無価の宝珠を衣の下に縫いつけていたことを知らされる。すなわち、二乗人が過去世に大通智勝仏のもとで大乗の縁を結んだが、無明のために悟ることができずにいたが 、『法華経』によっ て、如来の方便開示を受け、遂に一仏乗に入ることができた譬え。玄沙師備ー835~908、唐末五代の人。福州(福建省)の謝家に三男として生まれ、三〇歳まで漁師をしていたが、突然出家を思い立ち、その後福建地方に戻っていた兄弟子に当たる雪峰義存と意気投合して、共に雪峰山で寺院を開創した。のちに玄沙院で布教活動を続け、雪峯の禅風を発展させて「十方世界は一顆の明珠」という独自の思想を開発し、やがてそれは羅漢桂琛、法眼文益と受け継がれ、五家七宗の一つ法眼宗へと発展した。圜悟克勤―1063~1135年 宋代の禅僧。諡は真覚大師。彭州崇寧県の出身。南宋の高宗から圜悟、北宋の徽宗から仏果の号を賜ったので、圜悟克勤・仏果克勤といい、圜悟禅師、仏果禅師、真覚禅師と称される。幼くして出家し、五祖法演に法を嗣いだ。雪竇重顕の『雪竇頌古』を提唱し、垂示・著語・評唱したものが『碧巌録』、門下に大慧宗杲、虎丘紹隆がある。 古人得旨後、向深山茆茨石室。折脚鐺兒煮飯喫。ー円悟禅師の詩。折脚鐺兒は足の折れた五徳。深山の草ぶき小屋や石窟で、折れた五徳で飯を炊く。山奥での一人修行の意。塵寰―濁った世界(圓悟佛果禪師語錄卷第十四) 如意宝珠ー(cintāma の訳語) 仏語。一切の願いが自分の意の如くかなうという不思議な宝のたまの意で、民衆の願かけに対し、それを成就させてくれる仏の徳の象徴。如意宝。如意珠。如意の珠。曇鸞は、その著『浄土論註』に摩尼宝珠の徳を次のように解説する。諸仏が涅槃に入るとき、衆生を救うために仏の砕身舎利〔分骨〕を留めて衆生に与えた。衆生の福が尽きると、舎利は摩尼如意宝珠に変じた。この珠は、衆生が衣服や飲食、灯明や楽器類を欲すれば、たちまち願いのごとく種々のものを雨らせ、衆生の願いを満たす。彼の安楽仏土〔極楽浄土〕のもこれと同じ徳があると述べる。浄摩尼珠を濁水の中に置けば水は清浄となるように、もし人が無量の罪濁にあったとしても、無上清浄の宝珠に譬えられる阿弥陀如来の名号を聞いて、これを濁心に投げ入れれば、罪滅して心は清まり往生を得るという。舎利―梵語śarīraの音写で,本来は「身体」の意。ときに死体や遺骨を意味するが、一般には釈尊の遺骨をいい,それを安置した塔を舎利塔などと称する。また、形が似ていることから米つぶ、米飯を舎利という。仏舎利が米粒に似ていることによっており、近世から例が見え始める。ただし、仏舎利と米粒とを結び付けるのは中国唐代に既に見られ、日本でも空海撰「秘蔵記」に「天竺、米粒を呼んで、舎利と為す。仏舎利亦、米粒に似たり。一是の故に舎利と曰ふ。」とある。これらの記述自体は、梵語の「米śāli」と「身体śarīra」との混同に基づくとされる。一向独住すべからずー独居の輩は多く鬼魅魍魎に侵さる、共行の人は天魔波旬に嬈さるること少なし。未だ仏道の通塞を明らめず、空しく至愚の独居を守る、豈に錯りに非ずや。今、常に叢林の長連牀上に在って昼夜に弁道する、魔子嬈することを得ず、鬼魅侵すことを得ず。誠に是れ善知識、又、則ち勝友なり。『永平広録』巻六上堂。

迦那提婆尊者
第十五章
 第十五祖。カナダイバ(迦那提婆尊者)が、龍樹菩薩に逢おうとして、その門口に着くと、龍樹菩薩は「この人は賢そうな人間だ」と感じ取り、まず侍者に、水をたたえた鉢を持たせて座の前に置かせた。するとカナダイバは一本の針をその水中に投げ入れ、菩薩に返し、親しく面会した。その時直ちに心が通じた。

 第十五祖迦那提婆尊者。龍樹大士に謁するに、將に門に及ぶ。龍樹是れ智人なりと知り、先ず侍者を遣し、満鉢の水を以て、座前に置く。尊者これを覩て、即ち一針を以て投げ、而も之を進めて相見し、忻然として契会す。(本則及び現代語訳)  

 補注―迦那提婆―提婆菩薩の称・紀元180~270頃 Ārya-deva(聖提婆、聖天。一目眇 すがめなるを以てカナダイバ Kaṇa-devaという。第三世紀頃、南インドの人、婆羅門姓。一説にスリランカ国ともいう)玄奘三蔵の『西域記』巻十によれば、南コーサラ国の引正王が、龍樹を尊崇し、招いて城南の伽藍に居らしめた時に提婆がセイロンからきて龍樹と対論させ、龍樹の弟子となり、中観派の祖となったと述べられている。その後中インドのパータリプトラに移り、広く法を広めたが、頑凶な外道に殺害されたといわれる。著書に『百論』「広百論」などがある。伝は鳩摩羅什訳の『提婆菩薩伝』、『付法蔵因縁伝』、『宝林伝』等にある。  迦那提婆尊者は南インドの人。庶民階級の出身であり、はじめは福楽を願っていたが、別に弁論にもたけていた。

 龍樹尊者は師匠から法を伝えた後、南インドに布教した。この地方人の大半は福楽を願う者であった。尊者が仏の正法を説くと聞いた民衆は、口をそろえて言った。「人の世では福楽が最も大切なのに、自己本来の生命などと言っても、それは誰にも見えない」と。龍樹が言った。「もし君が自己本来の生命に出逢おうとするならば、最初に自分という先入観を捨てるべきだ。」と。その人が質問する。「自己本来の生命は大きいものか、それとも小さなものか」と。龍樹が答えた。「自己本来の生命とは大きくもなく、小さくもない。広くもなければ狭くもない。幸福もなければ、努力の成果もない。それは死ぬこともなく、生まれることもない」と。彼らはその教えが納得できたので、当初の常識をやめて、龍樹の教えを受け入れた。そこに智慧を具えた迦那提婆がいて、龍樹に面会を求めた。これによって迦那提婆の心を定まった。龍樹尊者は直ちに迦那提婆を自分の座を半分与えて坐らせた。それは恰も霊鷲山における迦葉尊者と同じだ。龍樹尊者は説法を始めた。坐ったまま、満月の景色を現した。迦那提婆は「これは龍樹尊者が自己本来の生命を現し、私たちにこのことを教えられたのだ」。なぜならば「無色透明な坐禅の世界は恰も満月のようなもので、カラッとして何もないからだ」と民衆に語った。提婆がそのように発言すると満月の姿は消え去り、また元の座に戻り、これを詩にして表した。
    体を満月の姿に変え、自己本来の生命とは何かを表した。
    説法しても、決まった形がない。それは聴覚や視覚を超えた世界だから。
 このような訳で師匠と弟子との区別がなく、自己本来の生命が通い合った。

 
師は南天竺国の人也。姓は毘舍羅。初め福業を求め、兼ねて弁論を楽ふ。龍樹尊者。得法し行化して南印度に到る。彼の国之人多く福業を信ず。尊者の妙法を説かんとするを聞いて、遞ひに相ひ謂て曰く、人に福業有るは世間の第一なり、徒らに佛性を言ふ、誰か能くこれを覩む。龍樹曰く、汝佛性を見んと欲せば慢なり。人曰く佛性は大なるか小なるか。龍樹曰く、佛性は大に非ず、小に非ず。広きに非ず、狭きに非ず。福も無く報も無し。死せず生まれず。彼、理の勝れたるを聞いて悉く初心を廻らす。その中に大智慧迦那提婆。龍樹大士に謁す。乃至忻然として契会す。即ち半座を分ちて居せしむ。恰も霊山の迦葉の如し。龍樹即ち為に説法す。座を起たずして 月輪の相を現ず。師衆会に謂て曰く、此れは是れ尊者、佛性の体相を現じて、以て我等に示す。何を以て之を知る。蓋し以みるに無相三昧は形、満月の如し。佛性の義廓然虚明なりと。言ひ訖て輪相即ち隠る。復た本座に居して、偈を説て言く、身に円月の相を現じ、以て諸佛の体を表す。法を説に其の形無し。用て声色に非ざるを弁ず。如是なる故に、師資わかちがたく。命脈即ち通ず。(機縁とその現代語訳)

 先ほどの物語の内容は普通ではない。最初から仏道にかなったと述べている。龍樹尊者は何も言わず、提婆も一言も質問しない。だからこれは師匠と弟子の区別がなく、主人と客人の隔たりがない。この時提婆は自らの法門の在り方を宣布して、インド五地方全域で「提婆宗
=中観派」と呼ばれるようになった。中国の祖師が「銀でできたお椀に雪を盛りつけ、明るい月の中を白鷺が飛んでいる」と表現したのと同じだ。  このような訳で初めての出逢いで、師匠は満水の水を鉢に入れて自分の前に置かせた。ここに裏もなければ表もなく、内も外もない。その鉢にはどこも欠けたところがなく、何の陰りもない。底まで透き通っており、満ち溢れていて神々しい。そこに一本の針を投げ込めば、その様子は誰にでもわかる。徹底し、徹頭している。どちらが中心で、どちらかが外れでもない。これは師匠と弟子との違いがない。同じようでありそのものでもない。混ぜてしまってもその跡がない。眉を挙げて瞬いてこれを表現したこともあり、花の色を見、竹の響きを聞いて表現したこともある。それは聞こえる世界でも、見える世界でもないので、否定のしようがない。可もなく不可もない。鉢に盛った水のように捉えようがない。一応理屈で納得し、具体的行動で示す時は、はっきりと心根を表して去り、水の流れが山を穿って、世界にみなぎり去る。針は袋を突き刺さし、芥子粒ほどの微細なものさえも、刺してくる。この水は誰にも壊されず、針の固さはダイヤモンドよりも強い。ここでいうところの針と水とは、他でもない、君たちの体であり心なのだ。飲みつくす時は一本の針であり、吐き出す時はただの真水だ。そこで師匠と弟子の生き方が一つになり、自他の区別がない。命の鼓動が一つになり、大きく輝く時には、世界のどこにも収まる場所がない。それは恰も瓢箪の弦が瓢箪に纏わりつくようなものだ。付いても離れても、それは自分自身の心なのだ。その上、君たちがその真水を理解したとしても、その中に針が潜んでいることを実感しなければならない。これを誤れば忽ちに喉に穴が開いてしまう。ともあれ決してどっちつかずの中途半端ではならない。飲むときはただ飲み、吐き出す時はただ吐き出して、実際にやってみる。真新しくて心に滞りがないと気が付いても、結局、大雨、火災、暴風もどうする事ができない、天地宇宙がどのように変化しても遮る事がない。この物語に決着をつけるためにできの悪い詩を披露しよう。諸君聞いてくれるかな。

 
適来の因緣これ尋常にあらず。最初に道に合し来る。龍樹も一言の説なく、提婆も一言の問なし。故に師資存じがたく。賓主いかんが分たん。是に依て殊に迦那提婆宗風を挙説して、遂に五天竺の間提婆宗といはれし也。いはゆる銀盌に雪を盛り明月に鷺を蔵すが如し。如是の故に、最初相見の時すなはち満鉢の水をもて座前におかしむ。あに表裏を存じ、内外を存せんや。已に是満鉢終に虧闕なし。亦これ湛水虚明也。通徹して純清也。弥満して霊明なり。故に一針を投じて契会す。須らく徹底徹頂すべし、正なく偏なし。ここにいたりて師資わかちがたし。類すれども斉しきことなく、混ずれとも跡なし。揚眉瞬目をもて此の事を現ぜしめ、見色聞声をもて此のことを表す、故に声色の名づくべきなし。見聞の捨つべきなし。円明無相にして清水の虚廓なるが如し。霊理に通徹し、神鋒を求むる時に似たり。処処鋒を露し来り、明明として心を通じ、もて去る。水も流れ通じて、山を穿ち。天をひたし去り、針もふくろをとをし、芥子をさしもて來る。然も水遂にものの為にやぶれず、あに跡をなすことあらんや。針も他の為にかたきこと金剛にも過たり。恁麼の針水あに是他物にあらんや。即ち是れ汝等が身心なり。呑尽の時はただこれ一針なり。吐却の時は又是清水なり。故に師資道通達して、全く是れ自他なし。故に命脈即通して、まさに廓明なる時、十方におさむべきにあらず。恰も葫蘆藤種葫蘆をまつふが如し。攀じ来て攀じ去る。ただ是れ自心なるのみなり。然も諸人清水を知り得たりとも、子細に覚触して底に針あることを明むべし。もしあやまりて服することあらば。果して咽喉をやぶりきたらん。然も是の如くと雖も、両般の会をなすことなかれ。只すべからく呑尽吐尽して、子細に思量してみよ。たとひ清白にして虚融なりと覚すとも、まさにこれ廓徹堅固なることあらん。水火風の三災もをかすことなく。成住壞空劫もうつすことなけん。故に這箇の因緣を説破せんとするに、更に卑語あり。大衆聞かんと要すや麼。
   
   一本の針が大海原の水を汲みつくす時は、

   獰猛な龍がどこにも身を隠す場所がない。  
     一針釣り尽す滄溟の水  獰龍到る処に藏す
                  一針釣尽滄溟水  獰龍到処藏身(偈頌並びに現代語訳)

 語註―銀盌に雪を盛り明月に鷺を蔵すが如しー「宝鏡三昧」の語。葫蘆藤種葫蘆をまつふが如しー「瓢箪の弦が瓢箪に纏わりつく」『正法眼蔵無情説法』にあり、元、如浄禅師の語。

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第十六章
 第十六祖。ラーフラバドラ(羅睺羅多尊者)がカナダイバ(迦那提婆)尊者にお仕えしていた時、過去からの因縁を聞いて覚るところがあった。

 第十六祖。羅睺羅多尊者。迦那提婆に執侍し、宿因を聞て感悟す。(本則並びに現代語訳)  
 
 羅睺羅多はカビラワストゥーの人。ここでいう宿因とは、迦那提婆尊者が法を伝えてカビラワストゥーにきたとき、梵摩淨徳という長者がいた。ある時庭の樹に大きな茸が生えた。茸はことのほか美味だった。長者は次男羅睺羅多とだけこれをとって食べた。採り終えてしばらくすると同じように生えてくる。この二人以外の親族には誰もそれを見つける事ができなかった。このころ迦那提婆尊者がその前世の因縁を知って、その家に行った。長者が何のための訪問かを尋ねた。尊者は答えた。「貴方の家では以前ある仏弟子に供養をした。この僧はまだ修行が未熟だったので、ただ信施を無駄食いしたので、そのために茸に生まれ変わり、貴方たちの供養に報いた。ところが貴方と息子さんは供養し続けたので、茸を得ることができたが、他の親族は違った」と。尊者は改めて質問した。「貴方は何歳ですか」。「七十九歳です」と答えた。

 ここで尊者は詩を作って説明した。
     仏の信者となって仏の法が理解できないまま、僧に布施を続けていて、
     貴方が八十一歳になると、この樹は茸をつけなくなる。

 長者はその詩を聞いて、ますます信心を深め、尊者に言った。「私はもう老齢なので、貴方様にお仕えできません。ですがここにいる次男をあなたの弟子として出家させたい」と願い出た。尊者は「むかし佛世尊は千年後に佛法を広める大教主が出生する。それがこの子だ」と予言された。今その子供に遭遇した。これこそ佛縁の成就です」と。直ちに剃髪得度して第十六世となった。

 師は迦毘羅国の人也。所謂宿因といふは。迦那提婆尊者受度行化し迦毘羅国に到る。彼れに長者有り。梵摩浄徳と曰ふ、一日園樹に大耳を生ず。菌味の甚だ美なる如し。唯だ長者と第二子羅睺羅多のみ、取てこれを食す。取り已て隨て長ず。尽くれば復た生ず、自余の親屬皆能く見る能はず。時に迦那提婆尊者、其の宿因を知って、遂に其家に至る。長者其の故を問ふ。尊者曰く、汝が家昔曽て一比丘を供養す。彼の比丘然るに道眼未だ明ならず、虚を以て信施を霑す故に報じて木菌となる。惟ふに汝と子、精誠に供養し以てこれを亨くるを得たり。余は即ち否なり。又問ふ。長者の年多少ぞ。答へて曰く、七十有九なり。尊者乃て偈を説て曰く。入道して理に通ぜず、復た身還て信施す。汝年八十一にして、此の樹耳を生ぜず。長者偈を聞て、弥々歎伏を加ふ。且つ曰く、弟子衰老なり、師に事ふる能はず、願くは次子を捨て、師に随て出家せん。尊者曰く、昔如来此の子を記す、当に第二の五百年に大教主たるべしと。今これに相ひ遇ふ、蓋し宿因に符ふ。即ち剃髮して第十六祖に列す。(機縁並びに現代語訳)  

  註記―羅睺羅跋陀羅 
Rāhulabhadra また羅睺羅―西暦220頃~300頃。提婆の付法の弟子、龍樹にも従学した様子。諸法皆空の理を証し、多数の僧徒を化道す。ターラナータ印度仏教史によるに、首陀羅族であり、容姿と財力と能力とは最も勝れ、那爛陀にて出家し、提婆の弟子となると記す。著作は西蔵経中に、菩薩行境清浄経義略摂のある外、梵文の法華経偈讃二十頌・歎般若偈二十頌等あり。仏祖統記五(大正藏49)には迦那提婆が迦毘羅国の長者、梵摩浄徳の家に赴き、長者の家の園樹が耳を生じて茸の如く、美味なるをもって長者と第二子の羅睺羅多が之を食した折に、その因縁を説いて弟子となると述べられる。この機縁は『宝林伝』伽那提婆章にあるが、『景徳伝灯録』伽那提婆章では、ほとんど『伝光録』に近い形になっている。

 むかしから今に至るまで仏道を修行して仏祖にも恥じず、他人にも愧じないで、修行者仲間に入り、仏弟子の矜持を持たず、いたずらに信者の布施を受けてならないことを戒めとするために、このエピソードを引用してきた。だからこれを愧じのよりどころとせねばならない。
出家者として家を捨て道に入ったのだから、住む場所も自分のものでなく、食事も決められた作法に従う。衣服も自分の好みではない。一滴の水、一本の野菜でも自分の所有物でない。なぜならば、私たちは皆なこの国土に育てられている。この世界、この国土はすべて公のものでない物はない。家に居れば親に仕え、社会に出れば社会に奉仕しなければならない。これは天地一切の表裏ない、恵みに守られている。それを中途半端な思いで、「仏道修行のためだ」と、理屈をつけて、仕えるべき両親にも仕えず、奉仕すべき社会にも奉仕しない。それではどこで両親に産んでいただいた恩に答え、暮させている天地社会の恩に答えることができるのか。仏道に入っていても仏道の眼がないなら、それは国賊ともいうべき存在だ。私たちは出家得度の時「世俗の恩愛を捨てて無為の世界に入る」という誓願を立てたではないか。楽しみも苦しみも、それを超えた世界さえも乗り越え、出家の時以後、父母も礼拝せず、社会の権威にも頭を下げないという、仏弟子の姿に留まり、清らかな仏の家に身を置いている。たとえ出家以前の妻子が施しをしてくれても、出家以前とは意味合いが異なる。それはすべて在家信者の布施以外ではない。古人も言っている。「仏道の眼が明らかでなければ一粒の米さえ、噛み砕くことができない」と。仏道の眼が清く明らかならば形のない佛鉢を持ち出して、大宇宙を食物として、昼と夜との食事としても、信者の施しに劣らない。それなのに自分の修行力が足りているか否かを顧みないで、漫然と僧となり、人の信施を当然として、供養が少なければ、知り合いに要求するのは心得違いだ。考えてみるべきだ、君が出家して故郷を離れたときには、米粒一つの蓄えも、わずかな衣服もまともでなく、ただ一人道のために進んだ。それは仏道の眼を見開くために我が身を任せ、法のために命を投げ出したのだ。その発心のはじめには、他人の評価を衣食に変える事はなかったはずだ。これはだれでも同じことで、問題以前だ。だから各々発心の初めに立ち返り、何が正しく、何が誤りなのかを考えるべきだ。だから「終わりを謙虚にするのは、最初の発心より難しい」との教えがあるではないか。つまり初めの発心を忘れなければ、だれでも道に適った人となるが、そうでなければ僧となり尼僧となっても皆ただの穀潰しとなってしまう。  ここで学ぶべきだ。先ほどの仏弟子は仏道の眼が明らかでなかったが、修行を諦めなかったので茸となって信施に報いた。ところが心得違いの現今の出家者は、死んで地獄に落ちても閻魔大王が許してくれない。現在、無反省で食べているご飯やお粥は熱湯となり火の玉となって、これを口にした途端に身も心も焼けただれてしまうだろう。
 雲峯悦禪師は「見ずや祖師の道へることを、道に入って理に通じざれば、復た身をもって信施を還さん。此れは是れ決定底の事にして終ひに虚しからず。諸上座よ。光陰惜むべし時は人を待たず。一朝眼光落地するを待つこと莫れ。緇田一簣の功無くんば、銕圍百刑の痛に陷ひる。道はずと言ふこと莫れ。」と述べている。
  君たちは幸いにも佛世尊の正しい教えに遇っている。これは町の中で虎に出遇うよりも稀だ、三千年に一度花の咲く優曇華に遇うよりも稀だ。細かい用心をし、確実な学びを通して、仏道の眼を清く明らかにしなくてはならない。しっかりと学ぼう、今日話した物語は、これを他人事、昔の話と考えてはならない。つまり前世の出家者が、今ここで茸となり、茸の自分が前世で出家者だったと知らない。出家者の時も自分があらゆるものの一部としてあるとは知らない。私たちは頭で考える事ができるので、痛いとか痒いとか感じるが、あの茸と大した変わりがない。なぜならば茸が君のことを知らないのは、どうしてこれが分からずに勝手に動く事でないと言えるのか。君が茸を知らないのも全く同じだ。ここには確かに思いのあるもの、思いのないものという違いがある。自分の住む世界と自分自身との違いもある。それでは聞こう。もし自己とは何かと突き詰めたとき、何が思いあるもの、何が思いなきものと決めつけられようか。昔と今の話でなく、見るもの見られるもの、その主体と分けるものでもない。迷いを断つもの、断たれるもの、自分が行ない、他人が行うものでもない。殊の外しっかりと修行しつくして、身も心も放ち忘れてみたらよい。その時はただ何となく形だけの僧となり、自身の思いの中の出家者でないことが理解できる。雨風の被害を逃れても、火事の被害にあわないとも限らない。世間の煩いを捨てても、佛菩薩の衆生済度の苦労は離れられない。どうしてそんな事が分からないのか。世間の人は世間の中で自他の行いに振り回され、あっちこっちと走り回る。人間ではなく、風になびく綿埃と同じだ。社会で出世したり、こぼれ落ちたりして、しっかりと大地を踏みしめず、心の坐りどころがない。ただ一生をごまかし通すだけでない。生まれ変わり、死に変わりして何代もむなしい生涯を送る事になる。私たちは昔から今に至るまで、誰も誤った仮の人生を送る事がなく、自分と他人という区別のない世界を生きている。それが分からないので、吹けば飛ぶような綿埃となっている。いまこそそうしたいい加減さを清算しなければ、いつになっても変わらない。この一段の物語を締めくくるため、拙い詩を作った。聞いてくれるかな。

 古今学道の人無慚無愧にして、徒に清流にまじはり、無知無分にして、空しく信施を受るを諫るに、多く此の因緣を引来る。実にこれによりてはづべし、比丘として家を捨て道にいりぬ、居処も是れ吾地にあらず。食法全く是れ我物にあらず。衣服も全く我がわざにあらず。一滴水・一莖草すべて是れ受用すべきものにあらず。ゆへいかんとなれば、汝諸人悉皆国土にはらまる。一天下・国土上。悉く是れ国王の水土にあらずといふことなし。然るに家にあれば親につかへ、国に侍べれば君につかへまつる。如是なる時、天地加護ありて、自ら陰陽のめぐみをうく。然もなまじひに佛法をねがはんと号して、仕ふべき親にも仕へず。つかへまつべるき君にもつかへまつらず。なにをもてか父母所生の恩を報じ。なにをもてか国王水土の恩を報ぜんや。道に入りて道眼なからん。恰かも国賊といひつべし。旣に棄恩入無為。三界を出といふ。然も出家してより後、父母をも礼せず、国王をも礼せず。已に形を佛子にかり、身を清流にやどす。たとひ妻子の施す所を受と云とも、全く是れ世俗にありてうけんには同ふせず。悉く是れ信施にあらずといふことなし。然も古人曰く。道眼未だ明かならずんば、一粒をも咬破しがたし。もし道眼清明なる時。たとひ虚空を鉢にして。須弥を飯として、日日夜夜受来るとも、是れ信施にまくることあらず。然るに道眼の具足と不具足と顧りみず、猥りに僧となりては人の供養を受来らんとおもひ。供養すくなければ徒に人倫にのぞむ。をもふべし、汝等家をすて郷をはなれし時、一粒の蓄へなく、一糸をもかけず。孤露にして遊行す。只道眼の為に身をまかせ、法の為に命をすつべし。あに最初発心、徒に名利の為、衣食の為にせんや。然れば人人問ふに及ばず。但自己最初の発心を顧みて、自ら是処をかへりみ。又不是処をかへりみよ。故にいふ、終りをつつしむこと始の如くすることかたしと。実に初心の如くせんに、誰か道人にならざらん。是によりてみな僧となり、比丘尼となるといへども。徒に国賊となるのみなり。何を以てか、むかしの比丘は道眼未明といへども。修行退転なきによりて、是を報ずる故に木菌ともなれり。今の比丘の如きんば、一生已にをはらん時、閻老汝を許すことあたはず。今の粥飯は或は鉄湯となり、あるひは鉄丸となりて、是を呑ん時身心紅爛しもてゆくことあらん。然も雲峯悦禪師曰。                                  
 見かずや祖師道ふことを、入道して理に通ぜず。復身は信施を還す。此れは是れ決定底の事。虚しからず。諸上座光陰惜むべからず、時は人を待たず。朝に眼光落地するを待つこと莫れ。緇田一箕の功無ければ。鉄囲百刑之痛に陥つ。不道はずと言ふこと莫れと。  諸人者幸に辱く如来の正法輪にあへり。市中に虎にあはんよりも稀なり。優曇華一現するよりもまれなるへし。子細に用心し。子細に参学して。須く道眼清明なるべし。見ずや今日の因緣を。有情といひ無情といひ、依報とわかち正報とわかつことなかれ。まさに前生の比丘、今日木菌となれり。木菌の時も我これ比丘となれりとしらず。比丘の時も我是萬法とあらはれたりとしらず。然れば今有情にしてすくなく覚知あり、いささか痛痒を弁ずといへども。木菌と殊なることなし。ゆへいかんとなれば。木菌の汝をしらざること、あに是無明にあらざらんや。汝が木菌をしらざることも、全くもてをなじ。是によりて有情無情のへだてあり、依報正報のしなあり。若し自己を明めん時、何をか有情といひ、なにをか無情といはん。古来今にあらず、根境識にあらず。能断なく所断なく、自作なく他作なく。大に子細に参徹して、身心脱落して見るべし。徒に僧形となるに誇り、乱りに塵家を出しに止まること勿れ。設ひ水難をのがるといへども。火難にわづらひぬべし。たとひ塵労をやぶり去るとも、佛にありても又免れがたし。何に況や如是ならざらん。人の物にしたがひ他に迷ふ。軽毛のごとく浮塵に同くして。東西に馳走し、朝野に昇降して、足実地をふまず、心実処に到らざらん類。只一生を賺過するのみに非ず。亦累世を虚く過しもてゆかん。しらずや昔しより今に及ぶまで、曽て相あやまらず。曽てへだてなきことを。汝未知有故に。徒に浮塵となる。今日若し尽却せずんば。何れの時をかまたん。適来の因緣をのべんとするに、卑語あり。聞かんと要す麼。(提唱現代語訳並びに提唱)

 語註―緇田一簣の功 
田んぼに一杯のモッコの土を運び入れて完成させる。雲峰文悦ー(998-1062)臨済下八世 北宋時代 賺過―「れんか」―だまし過ごす。

   これは残念なことだ。仏道の眼が清く明るくならない。
   自分と他人の区別をつけて、すべてを他人事としているのは。
      
惜む哉、道眼、いまだ清白ならず。自に惑ひ、他に酬ひて報、未だ休せざることを。                惜哉道眼不清白  惑自酬他報未休(偈頌並びに現代語訳)

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