第十七章
第十七祖。僧伽難提(サンガナンディー)に対し、ある時ラーフラバドラ(羅睺羅多)尊者が詩を作って教えた。私はすでに私を超えている。君は私が私を超えているのだから、君は私が超えている私とは何かをはっきりさせなさい。君はすでに私を師匠としている。だから私が私でないことを知るべきだ。サンガナンディーはこの詩を聞き、世界が開けて、自らの解脱を願った。
第十七。僧伽難提尊者。因みに羅睺羅多偈を以て示して曰く、我已に無我の故に。汝須らく我我を見るべし。汝既に我を師とするが故に、我の我我に非ざるを知る。師聞て心意豁然として即ち度脱を求む。(本則並びに現代語訳)
僧伽難提尊者はシュラバースティーの宝荘厳王の子である。生まれたばかりから言葉を話し、いつも仏陀を讃えていた。七歳になると出家者を願い、詩で父母に訴えた。「慈悲深い偉大な父君、私を生んで育ててくれた母君に稽首礼拝します。私はこれから出家いたします。どうかこの願いをお許しください。」と。父母はこれに反対したので、以後、一日中食事をとらなかった。そこで親は家にいたまま僧形となることを許し、僧伽難提の名を得て、禪利多という比丘の弟子となった。十九年を経過しても修行に倦怠することがなかった。このころ僧伽難提はいつも考えていた。「我が身は王宮に住んでいるが、これではとても出家者とは言えない」と。ある日の夕暮れに空から明るい光がさしかけて、真っすぐな道が続いていたので、自然と静かに歩き出した。五キロほど進むと大きな岩があり、そこに洞穴があったので、中に入って坐禅を始めた。父王は我が子がいなくなったので、禪利多を追い出して、王子を探すこと、国の外にも及んだが、一向に見当たらない。それから十年を経過し、羅睺羅多尊者がシュラバースティーに布教のために来た。この地に金水という川があり、その味がことに美味しかった。その流れの中に五体の佛の姿が現れた。尊者が弟子たちに告げた。この川の源流を二十五キロほど遡った所に僧伽難提という聖人が住んでいる。その場所でかつて仏は「一千年の後、仏の法門を継承する」と授記を与えた」と。その言葉を告げ弟子たちを率いて流れの畔を遡った。尊者はやがてそこにいたり、僧伽難提を見ると、ひたすら坐禅入定していた。尊者はただその様子を眺めていた。二十一日を過ぎたとき僧伽難提は定より立ったので、尊者は質問した。「君はここで坐禅入定していたが、それは体の坐禅か、それとも心の坐禅なのか」と。僧伽難提は答えた。「身も心も共に坐禅していた」と。尊者が言った。「身も心もともに坐禅していたなら、坐禅に出入りがないではないか」と。
師は室羅筏、宝荘厳王の子也。生れて而も能く言ひ、常に佛事を讃す。七歳にして即ち世楽を厭ひ、偈を以て其の父母に告げて曰く、稽首す大慈父。和南す骨血母。我今出家せんと欲す。幸ひに願はくは哀愍したまはんが故に。父母固く之を止むに、遂に終日食らはず。乃て其の在家出家を許し、
僧伽難提と号す。復た沙門禪利多に命じて之が師と為す。積むこと十九載未だ曽て退倦せず。師每に自ら念言す、身は王宮に居す。胡ぞ出家たらんや。一夕天光の下りて、偶ゝ一路の坦平なるを見る。覚へず徐ろに行く。約十里許りにて大巌前に至るに、石窟有り。乃て中に燕寂す。父王<既に子を失ひ即ち禪利多を擯し、国を出てその子を訪尋するに、所在を知らず。十年を経るに、羅睺羅多尊者、行化して室羅筏城に至る。河有り名けて金水と曰ふ。其味殊に美なり。中流に復た五佛の影を現ず。尊者衆に告げて曰く、此の河之源、凡そ五百里に、聖者僧伽難提有りて、彼の処に居す。佛、一千年後当に聖位を紹ぐべしと記す。語り已り諸学衆を領して、流れに沂て而上る。彼に至り僧伽難提を見るに、安坐入定せり。尊者衆とともに之を伺ふ。三七日を経て方めて定より起つ。尊者問て曰く、汝身の定なるや耶、心の定なるやと。師曰く、身心倶に定なりと。尊者曰く、身心倶に定なれば何ぞ出入有らんや。(機縁並びに現代語訳)
語註―Saṅghanandi サンガナンディ 西暦280頃~360頃。伝は『付法蔵因縁伝』にあるが、その内容はかなり異なる。この段はむしろ『景徳伝灯録』や『五燈会元』などに依っているようだ。活躍の拠点は中インドのシュラヴァースティー(室羅筏城)となっているが、ここは佛在世のころ、コーサラ国の首都舎衛城があったところで、祇園精舎も遠くない。また近くにはラプティ河という清流が流れており、この川を金水と呼んだのだろうか。この川は更にガグラ河となり、やがてガンジス河と合流する。また当時、すでにマウリア王朝は滅び、中インドでは500年ほど統一王朝がなかったが、チャンドラグプタ一世(在位320 ~335頃)がグプタ王朝をたてて、ガンジス川流域に権勢を伸ばしていた頃である。ただし僧伽難提が280頃~360頃の人であり、法顕三蔵が舎衛城を訪れたのが400頃だとすれば、まだ百年も経過していない。法顕の記述では「城内は人民希曠にして都て二百余の家あり」とあり、すでに荒廃が始まっていることが窺える。ここに王家があったことは理解しにくい。
身も心も禅定に入っているとすれば、出入ということはない。身に向かい心に向かうとして禅定を勤めれば、それは本物の禅定ではない。本物でない禅定ならば出入りもあるはずだ。だから出入りのあるものは禅定とは言えない。そもそも禅定に向かって身や心を求めてはならない。もともと坐禅修行とは心身の脱落なのだから。この身、この心とはそもそも何のことなのか。僧伽難提が言った。「出入りがあったとしても禅定の姿が失われることがない。金が井戸の中に潜んでいるのと同じことで、金そのものの価値にかかわらない」と。羅睺羅多尊者が更に言う。「もし金が井戸の中に在っても、一たび外に出ればもう金ではない。元々金には出入りがないのだから、一体何が出入りするというのか」と、金に出入りがあり、出るところ入るところがあるならば、それは本物の金ではない。そのように受け止めても道理がはっきりしていない」と。僧伽難提が言った。「金に出入りがあると言っても、一体何が出入するのですか。仮に金の出入りを認めても、金は本来出入りしません」と。私はこのように言おう。金に出入りがなく、出入があると言えば、それではどっちつかずだ。そこで、羅睺羅多尊者が言った。「もし金が井戸の中に在っても、出てしまえば金ではなくなる」と。それは何を指しているのか。外にも放ち入れず。内にも押し入れられない。出るときは出たで完結。入れば入ったで完結。そこに井戸もなく、井戸を出ることもない。だから出てしまえば金ではない。そこに何があると言うのか。物の受け止めが不徹底だ。そこで僧伽難提が言った。「金が井戸を出たら金でなくなる。もし何かが井戸にあるのなら、それは何なのか」と。これは金の本性を理解していない。だから羅睺羅多尊者が指摘した。「この受け止め方は間違っている」と。何となく禅定の説明をしているように見えるが、僧伽難提は物という実体を認めている。未だ道理がはっきりしていない。しかもこの義に真実はない。軽い産毛が風に飛ばされるようなもの、真実でないので仕方ない。そこで。羅睺羅多尊者が言った。「私はわが師提婆尊者が教えている。「そんなことを言っているとトンデモないことになる」と。僧伽難提は言った。「これは間違っていますか」と。羅睺羅多尊者は広大な慈悲心をもって改めて説明した。「その心得が間違っているなら、むしろ私の心得が適っている」と。それでも僧伽難提は無我を固定的に受け止めているので、「私の受け止め方が間違っていない。物事には自分がないからです」と。尊者はさらに説明する。「私の説明はもう完結した。そもそも私に自分という物がないからだ」と。そもそもすべてに自分がないことを理解しても、本当の姿が理解できていない。そこで更に、僧伽難提は「私に自分がないとしたら、誰が大切な自己を生きるのですか」と。更に自己とは何かを理解させようとして、尊者は「私には自分という物がないので、君の受け止め方さえも正しいと言える。実に私を構成する四大五蘊はすべて自分のものでない。このように決まった自分がないところに、自分が存在している。そんなものが自分という物だ」と。僧伽難提は質問する。「では貴方はどんな聖人を師匠として、その自分の思いを超えた自分を了解したのですか」と。師匠と弟子との出逢いが確実なものだということを教えるために、尊者は「私は提婆大和尚を師として自分という物がないことを究めた」と。僧伽難提は言った。「私はこの尊い指導者を育てた提婆大和尚を礼拝します。尊い指導者には自分がないからです。私はこの尊い指導者を自らの師と仰ぎます」と。尊者が答えた。「私はすでに自分を超えている。君は私が自分を超えた自分を学ぶべきだ。なぜならば私を師とするのは、私が自分に捉われない自分を生きているからなのだ」と。
ここにおいて学ぶべきだ。本当の自己を究める人は、自己そのものが存在しない。どうして種々雑多な思惑に振り回される事があろうか。見たり聞いたり、自分で考える必要がない。あれが何で、これがどうだと決めつける事もいらない。だからそこに凡人と聖人の区別はない所で師匠と弟子との出逢いが成り立つ。この道理が分かって佛祖と親しく出逢ったと言える。だから自己自身を師とし、師匠を自己自身とするのだ。刀や斧で切っても、切り開くことができない。この出逢いがあって、初めて従来漠然としていた自分が、忽然と理解できだ。ここで遂に「私をお導きください」となる。尊者が言った。「君の考えは自由だ。私が君を如何にかしようとは思わない」と。尊者はその時、金の応量器を右手に捧げながら、天上梵天の宮に行き、台所にあるご飯を持ち出して、修行僧に給仕しようとした。ところがその修行僧たちはそれを喜ばなかった。尊者が言った。「これは私の間違いではない。君たちが招いた自業なのだ」と。そこで僧伽難提に指示して一緒に食事を取らせた。多くの修行者たちはみな不思議に思った。尊者が言った。「君が食事を得る事ができない理由はここにある。私と座を共有するのは、過去の娑羅樹王如来と同じであり、人々を憐れに思い、ここに姿を現した。君たちは過去の荘厳劫中すでに第三不還果を得たが、まだ第四の阿羅漢果を得ていなかったからだ」と。修行者たちは言った。「貴方の師匠様の神通力は信頼できますが、その如来は過去の人ではないですか」と。僧伽難提はその自信過剰な疑念を素早く察知して更に言った。「仏陀世尊在世の時は、世界が平坦であり、丘陵がなかった。川には水が確かに流れ、その水はとても美味しかった。草木は蒼く茂り、農地は豊作であり、人々に四苦も無く八苦もなく、みな十善を行っていた。ところが仏陀世尊が沙羅双樹の下で゛涅槃に入って、今は八百年を経過して、あたりの丘は崩れ去り、樹や草も枯れはて、人々は正しい信仰を持たず、修行の心も希薄となった。仏の教えを学ばず、ただ神変奇術にすがっているではないか」と。言い終わって右手を拡げ、地面を掘り進んで金輪の際、水輪に接するところから、清らかで甘美な水を掬い上げ、瑠璃の器に入れて、修行者たちの前に現れた。それを見た大衆は自らの過ちを懴悔して改めて佛戒を受けなおした。
悲しいではないか、仏陀滅後八百年の当時でさえ、この体たらくだ。まして更に五百年を経過した現在は、仏法の名は聞けども、その修行の在り方が何かを知らず、道に生きる仏弟子の事実がない。だからそれを教えてくれる人もいない。少しばかり仏道を習い覚えても、それを護持継承する人がない。否、百歩譲ってその人がいたとしても、それを教え、学ぶ人がいない。それは修行を怠けているとしか言えない。だから本物の佛道修行をしようと志す人が見当たらない。これは実に末世の道が廃れた時代に生き、自らも宿世の善根を積まなかった報いとなっている。こんな時代に生きて、愧じても足らず悔いてもあまりがある。しかし諸君、我々は仏の正法、像法が伝わっている今の世に生きている。師匠としても弟子としても残念ではあるが、考えを変えよう。仏の法門がインドから中国・日本へと伝わり、世間では末法だなどという言葉も聞くが、それは時代の問題ではなく、それを受け止める自分自身の心構えにある。なぜならば永平寺開山道元禅師が、正法を伝えてから、まだわずか五、・六十年でしかない。だから私たちは最初の時代に生きているのだ。ここからあらゆるところで仏道は興隆するはずだ。私たちの勇猛精進によって実の志を起こし、「俺が、俺が」という小さな自分を超え、仏道に生かされる自分に気が付き、大きな志を忘れず、喜びの心、思いやりの心こそ大切なのだ。自己の仏だとか、自身の生死、迷いと覚りに束縛されず、永遠を生き抜く仏弟子としての自己を確立すべきだ。更に一語を着けよう。
実に身心もし、定なりといはば何ぞ出入有らん。もし身心に向て定を修せば、是れなを真定にあらず。もし真定にあらずんば即ち是れ出入あらん。もし出入あらばこれ定にあらずといふべし。定のところに向て身心をもとむることなかれ。参禅は本より身心脱落なり。何を呼てか身とし、なにをよんでかこころとせん。師曰く、出入有りと雖ども、定相を失わず。金の井に在るが如く、金体は常寂なり。尊者曰く、若し金井に在り、若し金井を出るに、金は動静無きに何物か出入せん。其れ金に動静あり、出処あり入処あらば、これ真金にあらず。然も猶を此の道理に通ぜず。師曰く、金動靜す何物か出入せんと言はば、金の出入を許す。金は動静に非ず。金に動静なし。出入ありといはば猶を是れ両箇の見あり。故に尊者曰く。若し金井に在らば出づる者何の金ぞ。若し金井を出づれば在る物は何ぞ。外終に放入せず、内亦放出せず。いづればいで尽き。いればいり尽く。何そ井にあり、又井を出でん。故に出づる者は金に非ず。在る者は何物ぞといふなり。この理に達せず。師曰く、金若し井を出れば、在る者は金に非ず。若し井に在るは出る物に非ず。此の言実に金の性をしらず。故に尊者曰く、此の義は然らず。実に定にありて理を通するに似たりといへども、師猶を物我の見あり。故に曰く、彼の理は著らかなるに非ずと。然もこの義真実なし、軽毛の風にしたがふが如し。真実ならざるゆへに。尊者曰く、此義当に墮すべしと。師の言ばによりていふ。師曰く、彼の義は成ぜすと。尊者大慈大悲の深きによりて、重て曰く、彼の義は成ぜざれば、我が義成じたり。然れどもみだりに無我を解する故に、師曰く、我が義成ずと雖ども法は我に非ざるが故にと。尊者曰く、我が義已に成ず、我に我無きが故にと。実に法法皆無我なることをしるといへども、なをこれ真実をしらず。師曰く、我れ我無きが故に、復た何んの義をか成ぜんと。したしく汝をしらしめんとして、尊者曰く、我れ我無きが故に汝が義を成ずと。実に四大悉く我にあらず。五蘊もとより有にあらず。是くの如く無我なるところに我あることを。すこしく思量分別し、わきまゆる故に。師問て曰く、仁者、何んの聖をか師として是の無我を得たるやと。師資の道猥ならざることをしらしめん為に。尊者曰く、我れ迦那提婆大士を師として、是の無我を証すと。師曰く、稽首す提婆師。而も仁者を出せり。仁者に我無きが故に、我れ仁者を師とせんと欲すと。尊者答て曰く、我れ已に我無きが故に、汝須らく我の我を見るべし。汝若し我を師とするが故に、我れの我れに非ざるを知るべし。
実に夫れ真実我を見得する人は自己なを存せず。あに萬法の眼にさへぎることを得んや。見聞覚知終にわかたず。一事一法更にわかつことなし。故に聖凡ヘだてなく、師資道合す。この道理を見得する時、すなはち佛祖相見すとす。故に自己をもて師とし。師をもて自己とす。刀斧斫どもひらけず。恁麼の道理豁然としてかなふ故に。即ち度脱を求む。尊者曰く、汝が心自在なり。我れの繋ぐ所に非ずと。語り已て。尊者即ち右手を以て金鉢を擎げ、挙て梵宮に至る。彼の香飯を取り、将に大衆に斎せんとす。而るに大衆忽ちに厭悪の心を生ず。尊者曰く、我の咎には非ず、汝等の自業なりと。即ち僧伽難提に命じて、座を分ちて同食せしむ。衆これを訝る。尊者曰く、汝が食を得ざるは、皆なこの故に由れり、当に知るべし吾と座を分つ者は、即ち過去の娑羅樹王如來なり。物を愍み迹を降れたり。汝が輩また荘厳劫の中、已に三果に至れども未だ無漏者を証せざるなりと。衆曰く、我が師の神力は斯れ信ずべきなるも、彼を過去佛と云うは即ち窃かにこれを疑ふと。師、衆の慢を生ずるを知って、乃ち曰く、世尊の在りし日は世界平正にして、無有丘陵有る無く、江河溝洫りて、水悉く甘美なり。草木滋茂し国土豊盈なり。八苦無くして、。十善を行う。双樹に滅を示してより八百余年。世界丘墟にして、樹木枯悴す。人に至信無く、正念軽微なり。真如を信ぜず。唯だ神力を愛するのみなりと。言ひ訖て、右手を以て漸く展べて地に入れ、金剛輪際に至って甘露水を取る。瑠璃の器を以ち持て会所に至る。大衆皆見て帰伏悔過す。かなしむべし、如来在世より八百年尚を是くの如し。何に況や後百歳の今、わづかに佛法の名字を聞くとも、道理いかなるべしともわきまへず。いたれる身心なき故に。いかなるべきぞとたづぬる人なし。いささかその道理を得ることあれども、護持し来ることなし。たとひ知識ありて、大慈大悲の教誡によりて、いささか覚知覚了ありといへども、或は懈怠にをかされて真実の信解なし。故に真実の道人なければ、真実発心する者なし。実に末世の澆運。宿業のつたなきによりて、此くの如きの時分にあへり。愧ても悔ても余りあり。然も諸人者正法像法に生ず。師としても資としても悲むべしといへども、思ふべし。佛法東漸して、末法に至ㇼて、我が朝如来の正法をきくこと、わづかに五六十年也。這の事初めなりといひつべし。佛法いたるところに興らずといふことなし。汝等が勇猛精進にして志を発し、吾我を吾我とせず、直に無我を証し、速に無心なることをゑて、身心の作に拘ることなく、迷悟の情に封ぜらるることなく、生死窟に留ることなく。生佛のつなにむすぶることなく、無量劫来未来際、曽て変易せざる我あることをしるべし。著語に曰く。(拈提及び現代語訳)
こころの働きが滑らかすぎて、自分をさらけ出した。
自己の出逢うところすべてが、自己の分身と受け止めた。
心機宛轉、心相に称ふ 我我幾くか、面目を分かち来る。
心機宛轉稱心相 我我幾分面目来(頌古並びに現代語訳)
語註―娑羅樹王如來―法華経妙荘厳王本事品で、妙荘厳王が未来成仏の記別を与えられた時の名号。稽首―頭を地に着くまで下げてする礼拜。和南―(vandana の音訳) 長上に敬意を表わし、その安否をたずねることば。口に「和南」と称し、深く首をたれて礼をする(稽首 けいしゅ) 燕寂―やすんじる。くつろぐ。荘厳劫―過去荘厳劫。ここに出現した華光仏から毘舎浮仏、または人中尊仏から金剛王仏までの千仏のこと。三劫三千仏縁起等には大劫の中に成・住・壊・空の四劫があって、その住劫の二十小劫の中に華光仏から毘舎浮仏に至る千仏が出現し、千仏によって荘厳されると説かれる。刀斧斫どもひらけず。―曹山本寂の語、堅固を譬える。
瑩山禅師の伝光録に親しむ第二 18章 伽耶舍多尊者
第十八章
第十八祖。伽耶舍多(ガヤシャタ)尊者が、サンガナンディー(僧伽難提)尊者に仕えていた。ある時、風が吹いて本堂にかかる銅鈴の鳴る音を聞いた。尊者がガヤシャタに質問した。あれは風が鳴ったのか、それとも鈴が鳴ったのか。ガヤシャタが答えた。鳴ったのは風でも鈴でもありません、私の心が鳴っただけです。尊者が言った。それは誰の心なのかね。ガヤシャタが言った。風が吹き鈴が鳴った、それだけの事です。尊者が言った。「良いことに気が付いた、私の仏道を継ぐのは君以外にはいない」と。そこで直ちに法蔵を継がせた。
第十八祖。伽耶舍多尊者。僧伽難提尊者に執侍す。有る時風殿に吹いて銅鈴の声を聞く。尊者、師に問うて曰く、鈴鳴るや耶風鳴るや耶。師曰く、風に非ず。鈴に非ず。我心鳴るのみ。尊者曰く、心とは復た誰ぞ乎。師曰く、倶に寂靜の故に。尊者曰く、善哉善哉。吾道を継ぐは子に非ずして誰ぞ。即ち法蔵を付す。
語註―伽耶舎多 Gayāśata310頃~390頃。欝頭籃 Udrakaバラモン姓の一つか。摩提国―摩竭国、摩竭提国―マガダ国のことか。グプタ王朝―伽耶舍多尊者はグプタ朝に生きたと考えられる。マガダ地方の小領主に過ぎなかったグプタ朝が実質的に建国されるのはチャンドラグプタ一世(在位320-335頃の時代)。チャンドラグプタ一世はビハール州北部に強い勢力を持っていたリッチャヴィ族と強固な婚姻同盟を結び、さらにその力でガンジス川中流域へと進出。パータリプトラを都とし、この地域の覇権を握った第二代のサムドラグプタ" (在位335頃 – 376年頃)は各地に軍事遠征を行い、ガンジス川上流域や中央インドの一部、ラージャスターンまで勢力を拡大し、領域内の支配体制を固めるとともに南インドにまで政治的影響を及ぼすこととなった。第五代スカンダグプタ在位455ー467頃、マガダ国の首都はパータリプトラからアヨーディア(サケータ)に移された。この章は『正法眼蔵古鏡』を参照のこと。
師は摩提国の人、姓は欝頭籃、父は天蓋、母は方聖である。母はある時、神様が鏡を持つ夢を見て懐妊し、七日後に生まれた。その子の肌は珠のように美しく瑠璃―ラピスラズリのようでもあった。その子は産湯を使う前からよい香りがして清潔だった。生まれたときから一つの丸い鏡が現れ、この子が移動すると必ず移動した。この子はよく物を話し、いつも静けさを好み、世の中の情念に馴染まなかった。その丸い鏡はその子が坐るときは顔の前に在り、昔から今に至る仏門のあり様は、何でも鏡の中に浮かび上がる。それは経典や祖書を読んで了解するより、更に一層明らかであった。その子が歩いて行く時、鏡は後に続いて後光のようで、その子の姿が隠れることはない。その子が横になるときは、その鏡が床の上で天蓋のように覆っている。行住坐臥の総てに於いて鏡が必ず傍にある。
ところがある時、僧伽難提尊者が仏道教化のために摩提国にやってくると、たちまち涼しい風が人々に吹き付け、身も心も実に爽やかにした。なぜそうなったのか誰もわからなかった。尊者が言った。「これは徳の風であり、ほどなく聖人が現れ、仏祖の法門の灯を継承するはずだ。」と。言い終わると大勢の人たちを引き連れて山や谷を訪れた。食事時間ほどの間にある山の麓に至り、人々に言った。「この山の頂に紫の雲がかかって、傘のようになっているが、これは聖人がここにいる兆しなのだ」と。暫くして、人々共に辺りを見回していると、山の家から一人の子供が丸い鏡を携え出て、つかつかと尊者の前にやってきた。尊者が質問する。「君は何歳かね」と。子供が答える。「百歳になります」と。尊者が言った。「見た目は若者なのに、どうして百歳と言うのか」と。子供が答える。「何を言っているのか理解できないが、私は百歳に相違ありません」と。「君に善い働きがあるのかね」と。子供は答える。「かつて佛世尊は言われました。人が百歳の長生きをしても、仏の働きを会得しなければ、一日だけ生きて、それをしっかりと会得する方が大切だ」と。尊者は質問する。「君が持っている物はいったい何なのか」と。子供が答えた。「これは仏様たちの大きな丸い鏡です。内外どこにも傷がなく二人の人が同じように見る事ができます。心の眼は誰でも同じだからです」と。これを聞いていた両親は直ちに、この子の出家得度を許可した。尊者は元の場所に連れ帰って戒法を授け、伽耶舎多と名付けた。ある時風が本堂の銅鈴に吹き付ける音を聞いて・・・乃至、法蔵を授けて第十八祖となった。
この丸い鏡はその子が出家すると忽ち見えなくなった。(機縁現代語訳)
師は摩提国の人也。姓は欝頭籃、父は天蓋、母は方聖なり。嘗て大神の鑑を持つを夢みる、因みに娠有り。凡そ七日にして誕る。肌体の瑩くこと瑠璃の如し。未だ嘗て洗浴せざるに自然に香潔なり。生時より一円鑑ありて現ず。尋常此の童子にとものふ。童子常に閑静を好む。都て世緣に染まず。所謂此の円鑑、童子坐する時は面前にあり。古今の佛事都て此の鑑に浮ばずと云うことなし。恰も聖教によりて照心するよりも猶明かなり。童子若し去る時は。此の鑑後ろにしたがふこと圓光の如し。然も童形かくれず。童子臥すときは。此鑑床の上に天蓋の如くにしておほへり。すべて行住坐臥、この鑑あひ随がはずといふことなし。しかるに僧伽難提尊者、行化して摩提国に到るに、忽ち凉風有って衆を襲う。身心悦適なること常に非ず。而も其の然れるを知らず。尊者曰く、此れは道の徳風也。当に聖者出世して祖灯を嗣続するべし。言ひ訖て神力を以て諸の大衆を摂て山谷に遊歴す。食頃にして一峯の下に至るに、衆に謂うて曰く。此の峯頂に紫雲有て蓋の如きは聖人これに居するなり矣。即ち大衆とともに徘徊することこれを久しくす。山舍に一童子の円鑑を持つを見る。直に尊者の前に造る。尊者問て曰く、汝、歳いくつなるや。曰く、百歳。尊者曰く、汝が年尚を幼し、何ぞ百歳と言うや。曰く、我れ理を会せざれど、正に百歳なるのみ。尊者曰く、汝、機を善くするや耶。曰く、佛言く、若し人生くること百歳にして諸佛の機を会せざれば、未だ一日生きてこれを決了するには若かずと。尊者曰く、汝が手中は当に何んの所表なるや。童子曰く、諸佛の大円鑑なり、内外に瑕翳無し。両人同じく見るを得て、心眼皆な相似たりと。父母子の語を聞いて。即ち捨して出家せしむ。尊者携て本処に至り、受具戒し訖り、伽耶舍多と名く。有る時風吹て殿の銅鈴声るを聞て。乃至即ち法藏を付し終に列十八祖に列す。彼の円鑑童子出家せし時忽然としてみへず。(機縁並びに現代語訳) この章は『正法眼蔵恁麼』を参照のこと。
実はこれこそ各自が持つ光明なのだ。いまの丸い鏡の内外に傷がないようなもので、誰でもその通りなのだ。この少年は生まれて以来、いつも仏事を讃え、世俗の営みに馴染まなかった。それは常に明るい鏡と向き合い、古今の仏事を見ていたからである。心の眼に写し出すと理解しても、自分は佛世尊の働きが理解できていなかった。そこで一応自分の年は百歳と言ってみたが、実は一日であっても諸仏の働きを理解できたなら、百歳の人生だけでなく、無量の生死を超えると考えていた。その時持っていた丸い鏡が必要でなくなった。これこそ正しく諸仏との運命の出逢いであった。いい加減ではならない。簡単なことでないことはこの物語でも理解できるだろう。それは実に諸仏の大きく丸い鏡とは何かを体得することだ。それ以外に何もない。だがそれとても本物の姿ではない。では諸仏の大きく丸い鏡はどこにあるのか。また二人が一緒に手に入れる事があるのか。更に内にも外にも疵なしという事があるのか。いや疵とはいったい何なのか。
そもそも心の眼とは何か。似たものなどありはしない。だから丸い鏡が消えたのだ。しかしこれは少年の身体が無くなったのではない。しかも外見がそう見えても、心の眼と違ったものでもない。二人の見方が同じだと理解しても、実はあくまでも二つの異なった見方なのだ。これは真実の自己を明らかにしたわけではない。だから君たちは丸い鏡という先入観を持ってはならない。身体の想いを抱いてはならない。しっかりと入念に参じ尽くして、直ちに自己の住む世界と自己とは同じということを突き破り、自己とはわからないことを実感すべきだ。もしこの領域に至らなければ、ただ理由もなしにただうごめいている生き物であり、諸仏の働きを手に入れることがない。だから従来の自己を懺悔し、祖師を礼拝し、遂に出家授戒して、サンガナンディーにお仕えして年月を重ねたのだ。
そんなある時風が吹いて精舎の銅鈴が鳴る音を聞いて、師匠がガヤシャタに質問した。「鈴が鳴ったのか、風が鳴ったのか・・・云々」と。この物語はしっかりと体得しなければならない。師匠は別に鈴や風に興味を持ったのではない。弟子に取って何が大切なのかを教えようとして、このように「鈴が鳴ったのか、風が鳴ったのか」と質問したのだ。それはいったい何なのか。そもそも風や鈴の理解ではない。まして世間の鈴や風の問題ではない。そもそも鈴鐸というのは、杭州の堂閣にはどこでも皆掛けて有り、これで民家と僧家とを区別してきた。都が北京に移った当初は殿堂に鈴鐸をかけていたが、最近はその風習が廃れて、意義がなくなった。インドの事例もそれと同じことだ。この銅鈴に風が吹くとき、このお話ができた。そこでガヤシャタが質問に答えた。「風でもなく鈴でもありません。私の心が鳴っているだけです」と。ここでしっかり受け止めよう。ちょっとした上辺の現象を問題としなかったことを。だから「風が鳴るのでもなく、鈴が鳴るのでもない」と。あるいは「鳴ると思えば鳴る」と。この受け止め方もまだ極まっていない。そこで更に「私の心が鳴っているだけです」と。しかしこの物語を聞いて間違った理解をする者が多い。「必ずしも風が鳴ったのではなく、ただ心が鳴ったのだ」と理解したので、ガヤシャタはこのように言ったのだと。これが唯の世間話ならば、どうして「鈴が鳴ったのではない」ということができようか。そこで「私の心が鳴っただけだ」との答えがあった。ガヤシャタから六祖に至るまで時代ははるかに隔たっているけれど、その内実は何も隔たってはいない。それ故、「風や幡が動くのではなく、君たちの心が動いているだけだ」となる。今ここに集う君たちもその本来の自己にぶち当たるとき、過去現在未来の三世の隔てなく、覚りの標も古今に続いて絶え間ない。どこに同じ違いがあるのか。世間評価を期待しないでよい。「風が鳴るのでなく、鈴が鳴るのでない」のだから、しっかりと知るべきだ。「何事を知ろうとしているのかと心にとめるなら、間違いなく自分の心が鳴っていると知るべきだ。その鳴る様子は山ががっしりと高く、海がどこまでも平らなのと同じだ。草木が高く生い茂るのも、人々の目がはっきり区別するのも、皆こころの鳴る様子なのだ。だから音が鳴ると思ってはならない。音も同じく心が鳴っているのだ。我が身を形作る心身も、出会うところの総ての物事は、どれとして心の鳴ることであり、この生命はすべてに行き渡っている。それは叉響きを受け止めているのではない。耳で聞いているものでもない。耳が鳴っているのだ。すべてが静まり返り、これは何かと見定める時に、すべての物事は出る場所がない。山にも形がなく、海にも形がない。そもそも姿形そのものがない。夢で木蘭の船で青い海原を行くのと同じだ。竿をあげて波を掻きわけるのも、船を留めて水の勢いを歌ったとしても、そこには浮かぶ空もなく、沈む海底もない。そうなると、山や海の他に居場所がないことになる。自己という船の中で遊ぶ場所さえない。だからこのように指摘しよう。「眼があっても聞くことがなく、耳があっても見ることがない」と。これは六根が互いに働いているという物ではなく、六根が携わる場所がないことだ。それは能所ともに静まり返った様だ。細かく言うならば解脱すべき我が心身もなく、無くすべき自己も世界もない。本当に静まり返って同じだ違うだという理屈もない。内外の世界でもない。
このような地盤に立てば、直ちに諸仏の法蔵を受持して、仏祖の位に居ることである。しかしそうでなければ、たとえ「すべてのものは誤りでない」と理解したとしても、そこには「自分だけは」という過信を持ち、「あれは善い、これは悪い」と物事をランク付けする。そんなランク付けはどうして仏祖の世界と言えるのか。あたかも大空に垣根を築くようなものだ。空は何も邪魔できない。自分が勝手に区別しているだけだ。そんな区別が存在しないのだから、ここに内外はない。そうなると釈迦世尊もはじめではなく、君たち諸君もまた終わりではない。諸仏という決まった面目もなく、君たちと言う決まった姿形もない。こうなると清水が波濤となり、仏祖がお出ましになるようだ。それは増えもせず、減りもしないが、水が流れ激しい波となってゆく。であるからしっかりと修行すれば、この地盤に立つことになる。限りない過去から永遠の未来にかけて、時には区切りをつけて過去現在未来を並べることもあるが、すべての移り変わりが皆んな仏の掌の中の出来事だ。このように明白な本来の生命に出逢ったならば、身体の具体現象に振り回されることがない。しかもこの地盤は身や心で理解する者でなく、動いた止まったの問題でもない。しっかりと修行するとは自己自身で納得し、その生き方を淡々と続けてゆくときに現れてくる。このように受け止めなければ一日中、心身をこき使うこととなり、重い荷物を背負い歩いて、心身を疲労させるばかりだ。もし心身を放ち忘れて、自己の人生を空っぽにすれば、それこそ誤魔化しのない普段の自分となる。このようなことであるから、先ほどの物語で言う「心が鳴る」様を納得し、自得しなければ、仏さまのお出ましも、凡夫である自己自身の成道も知らないでいることになる。そこで「心が鳴る」ことを説明しようとして、私は拙い詩を作った。聞いてくれるかな。(拈提現代語訳)
実にそれ人人一段の光明。今円鑑の内外瑕翳なきが如し、悉皆相似たり。かの童子うまれてより此の方。常に佛事をほめ俗事に混ぜず。明鑑対し古今の佛事を看見す。真に心眼皆相似たることをしるといへども。なほおもふに諸佛の機を会せず、故に百歳といふ。仮ひ一日なりといへども。若し諸佛の機を会せんが如きんば。ただ百歳をこゆのみにあらず。無量の生をもこゆべし。此の故に終に円鑑をすつ。実にこれ諸佛一大事因緣なり。ゆるかせにせす。たやすからざること此の因緣にてもしるべし。実に諸佛の大円鑑を解会す。のこるところあるべけんや。然れともなほ是れ真実底にあらず。更に何ぞ諸佛の大円鑑あるべき。又何ぞ両人同得すべきかあらん。又何の内外瑕翳なきかあらん。なにを呼でか瑕翳とせん。心眼とは何ぞ。あにあひ似たるべけんや。ゆへに円鑑を失す。あに是れ童子の皮肉を失するにあらや。然もたとひ所見今の如く。心眼あひへだたらず。両人同得見と会すとも。真箇これ両箇の所見なり。更に真自己を明むる底にあらず。然れば汝諸人円相の所見をなすことなかれ。身の相をなすことなかれ。大ひに須く子細に参徹して。急に依報正報一時に破烈し、自己又不了なることをうべし。若し此の田地にいたらずんば、ただ是れ業報の衆生未だ諸佛の機を会せるにあらず。斯の如く懺悔礼謝し、遂に出家受具して。後に僧伽難提に執侍して年をおくる。
有る時風吹て殿の銅鈴声るを聞て、尊者師に問うて曰く、鈴鳴るや風鳴なるや云々。この因縁実に子細にすべし。尊者遂に鈴をみず風をみずとも。更にこのなに事をしらしめん故に。恁麼に鈴鳴耶、風鳴耶と問ふ。是れなに事ぞ。風鈴をもて解会すべからず。尋常の風鈴にあらず。即ち堂殿角にかけたる鈴なり。鈴鐸といふ。今南都堂閣寺に悉く皆かけ来れり。此れをもて人家と堂舍と弁別す。北京となりてよりはじめつかたは。堂舍に鈴鐸をかくといへども。近代は土風すたれて義なし。然れども西天の義も是の如し。この鈴鐸を風の吹く時。此の公案ありき。然も師答て曰く、非風非鈴。我心鳴る耳と。実に知ぬ。すべて一塵の辺表を出し来ることなし。これによりて非風鳴非鈴鳴。また鳴と思へば即ち鳴なりと。恁麼の所見もなほ是心倶に寂靜にあらず。これによりてすなはち曰く、わが心なるなりと。この因緣をききて人皆解す。必しも風の鳴にあらす、唯心鳴と覚ゆと。故に伽耶舍多如是いふと。若天真天然として一切発せざらん時。豈鈴鳴に非ずともいふべけんや。故に我心鳴也と。伽耶舍多より六祖にいたるまで。時代はるかにへだたれり。然れども更にへだたらず。故に風幡動にあらず。仁者心動なりといふ。今汝諸人も其の心地徹通する時。三世もとよりへだたらず。証契古今に連綿たり、何の同異を弁ぜん。尋常の所見に弁ずることなかれ。風鳴にあらず、鈴鳴にあらざるをもて、始めてしるべし。此のなに事をしらんとおもはば、すべからく我心鳴なりとしるべし。その鳴る姿は。山の突兀と高く、海の平沈と深きが如し。草木森森たるも、人人眼目の分明なるも、心のなるすがたなり。然れば声の鳴るとおもふべからず。声も又心のなるなり。四大五蘊一切萬法、都盧皆これ心鳴なり。此の心すべてならざる時なし。故に遂にひびきをおびず。更に又耳をもてきかるるにあらず。耳これ鳴が故にいふ。俱に寂静と恁麼に見得する時、すべて萬法出頭のところなし。故に山の形なく、海の形なし。更に一法の形貌を帯するなし。恰も夢に蘭舟を浮べ滄溟に行が如し。竿をあげて波瀾をわかつも、舟を留めて水勢をそらんずるも、うかぶ空なく、しづむ底なし。更に何の山海の外に立すべきかあらん。更に何の自己の船中に游戲するかあらん。故に恁麼に指説す。眼あれども聞くことなく、耳あれども見ることなし。故に六根互融すといふべからず。六根の帯すべきなし。故に俱に寂静なり。とらんとするに六根なく、すてんとするに六根なし。根塵ともに脱し、心境ふたつながらともに忘ず。子細に見れば脱すべき根塵なく、泯ずべき心境なし。真箇寂寂にして同異の論にあらず、内外の情にあらず。
実に恁麼の田地にいたる時。即ち諸佛の法蔵を受持して。正に佛祖の位に排列す。若しかくの如くならずんば、たとい萬法不錯と会すとも。猶是自己を存し。他を談じて、遂に法法隔歴す。もし隔歴せば、何ぞ佛祖に即通せん。恰も空裏に界墻をつくが如し。空あにさゆべけんや。自ら界障をなすのみなり。若し界畔一度やぶる時、なにを内外とせん。ここにいたりて釋迦老子も始めにあらず、汝諸人も又をはりにあらず。すべて諸佛の面目なく。諸人の形貌なし。如斯なる時。恰も清水波濤をなすが如く、佛祖出興しもてゆく。これ増にあらず、減にあらずといへども。水流れ浪激しもてゆかん。然れば子細に参徹して。恁麼の田地に至りうべし。曠劫以来及未来永際。且く界畔をなして三世を排列すといへども。総に従劫至劫唯如是。這箇明白の本性を会得せんに、皮肉をもてわづらひ、身の動静をもてわきもふべきにあらず。すべて此の田地、身心をもてしるべきにあらず。動静をもてわきもふべきにあらず。子細に参徹し、自休自歇し、自ら承当して始めてうべし。若し恁麼に明めずんば、徒に十二時中、身心を担ひ持ちきたらん。恰も重担を肩にをくが如く、身心遂にやすかるべからず。若し身心を放下して、心地空廓廓地にして、尤も平生なることをゑん。然も是くの如しと雖も。適来の因緣心鳴るところを道得して明らめゑずんば、諸佛の出興をもしらず、衆生の成道をもしらず。故に心鳴を道得せんに。卑語を付んと思ふ。要聞麼。(拈提)
ひっそりと静かな心でもその響き方は様々だ。
あたかも僧伽難提と伽耶舎多とが風鈴のように。
寂寞として心鳴、響き萬樣 僧伽、伽耶、風鈴に及ぶ。
寂寞心鳴響萬樣 僧伽伽耶及風鈴(偈頌並びに現代語訳)
語註―蘭舟 蘭の木で作った美しい舟。
瑩山禅師の伝光録に親しむ第二 19章 鳩摩羅多尊者
第十九章
第十九祖。クマーララータ(鳩摩羅多)尊者が、ある時ガヤシャタに示した、「むかし佛世尊は予言を与えた。私の滅後一千年を経たとき偉大な修行者が、大月支国に出現し佛の法門を広めるだろうと。私はいま君に出逢った。これは実に幸運なことだ」と。クマーララータはそれを聞いて、前世の因縁が満ちたと感じ取った。
第十九祖。鳩摩羅多尊者。因みに伽耶舍多尊者に示して曰く、昔世尊記して曰く、「吾が滅後一千年に大士有り。月支国に出現し玄化を紹隆せん」と。今汝吾に値ふ、応に斯れ嘉運なり。師聞て宿命智を発す。 (本則並びに現代語訳)
クマーララータは月支国の人で、婆羅門の出である。むかし自在天に住んでいた。これは欲の世界の最高位第六天であったが、ここで菩薩の胸飾りを見て、たちまち愛欲の心を起こして、欲界空居天の第二である兜率天に落ちてしまった。ここで帝釈天が空般若で彼岸に渡る教えを説くのを聞き、その内容が優れていたので、色界の梵天に上ることができた。気根が鋭かったので、しばしば法の重要さを説いていたので、天人たちは私を指導者と仰いだ。ここで仏法の祖灯を継承する機運が満ちたので、バクトリアに降りてきた。そこへ第十八祖ガヤシヤタ尊者が布教のためにやってきて一軒の婆羅門の家を見つけた。それは異様な雰囲気があった。そこで尊者が家に入ろうとするとクマーララータが質問した。「貴方様はぃつたい誰の弟子ですか」と。尊者が答えた。「私は佛世尊の弟子です」と。クマーララータは佛世尊の名を聞き、びっくりし、即座に戸を閉めてしまった。尊者は少ししてから、その門をたたいた。クマーララータは中から「この家には誰もいません」と答えた。尊者が言った。「いないと言っているは誰なのかね」と。そこでクマーララータはすぐさま門を開いて客を招き入れた。尊者が言った。「むかし佛世尊は予言を与えられた。・・・・・・そこで前世の因縁に気が付いた。
師は月支国の人也。姓は婆羅門。昔自在天の人為り。欲界の第六天にて、菩薩の瓔珞を見て。忽ち愛心を起こし、墮して忉利欲界の第二天に生ず。 憍尸迦の 般若波羅蜜多を説くを聞いて、法を以て勝れたりとす。故に梵天の色界に昇る。根利なるを以ての故に善く法要を説きたり。諸天尊は導師と為す。祖位を継ぐの時を以て、遂に月支に降るに至る。十八祖化度して月支国に到り、一婆羅門の舍に異気有るを見る。尊者將に彼の舍に入らんとするに、師問て曰く。師は是れ何の徒なるや。尊者曰く、是れ佛の弟子なりと。師、佛号を聞いて、心神竦然たり、即時に戸を閉ず。尊者良久しくして其の門を扣く。師曰く、此の舍に人無しと。尊者曰く、答無しと答ふる者は誰ぞ。師、語を聞いて是れ異人なりと知る。遽に関を開いて延接す。尊者曰く、昔、世尊記して曰く、乃至宿命智を発す。(機縁並びに現代語訳)
語註―鳩摩羅多尊者ーKumārarāta(340頃~420頃) 童受、童首、童壽。第三世紀末葉、北インド怛叉始羅国タキシラの人。付法蔵の第十八祖。学徳が高く、日出論師と称せられた。羯盤荼国、今の(Tashkurgan)にて教化、述作に従事し、門下に成実論の著者、訶梨跋摩がある。西域記巻十二 羯盤陀国の下には「尊者は怛叉始羅の人也。乃至、此の時に当たり、東に馬鳴有り、南に提婆有り、西に龍猛有り、北に童受有り。号して四つの日、世を照らすと為せり」とあり、経部の論師だと言っている。月支国―紀元前二世紀前後中央アジアで活躍した民族。中国の春秋戦国時代にモンゴル高原西半を支配した月支の主力が、天山山脈北方に移動したものを大月支。河西地方に残ったものは小月支という。エフタルの攻撃を受けて西遷し、バクトリア(大夏)に侵入し、これを滅ぼした。バクトリア(Bactria)はヒンドゥークシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域の古名。現在はイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部にあたる。かつてその領域にはグレコ・バクトリア王国などが栄えた。しかし古代インドでは漠然とガンダーラと表現されることが多い。憍尸迦ーきょうしか梵語カウシカ(kauśika) の音写。 帝釈天のもとの姓。梵天 ぼんてんー仏教の守護神。色界の初禅天<にあり,梵衆天,梵輔天,大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話ブラフマーインドラ(帝釈天)などと共に仏教守護神として取り入れられた。【悚然・竦然】―しょうぜん。恐れて立ちすくむさま。こわがるさま。慄然ーりつぜん(延接えんせつ);―ひく。ひきいれる。まねく。この章は『正法眼蔵三時業』を参照のこと。
この物語をしっかりと考えねばならない。自分の生まれが何か、人の人生の総てがかけがえのない真実の出逢いだと受け止めても、自己の人生は自己が生きるのみということを納得しなければ、佛祖が体験したことは分からない。だから仏道に生きようとする人の後光を見て驚き、佛世尊の自覚者としての品格を大切にしなければならない。なぜならば私たちは貪り、怒り、分からないで動くという三つの煩悩の毒を避けることができない。冷静にクマーララータの前世の行いを眺めると、愛欲により最高位の天国から少し下位の兜率天に落ちたが、何代か以前の善い行いに報われて兜率天の主である帝釈の説法を聞くことができて、欲の天国を超えた梵天に上り、その報いとしてバクトリアに生まれた。功徳を積むことは必要だ。これによって法灯の第十八祖に逢うことができて、遠い前世からの智慧の力は過去を知り、未来を知ることだと思う。これは何かといえば本来から備わった不変の生命力なのだ。それは凡夫も聖人もいない、迷いもないことを見極めれば、あらゆる仏道の教えも、数えきれない素晴らしい道理も、すべて生命の源にあるのだ。だから凡夫根性の間違いも、佛菩薩の自覚も、わずかな差に在るのだ。これは全く自己と他人を区別する以前のことだ。そこには昔もなく今もない。仏という他人もいなければ、自己という凡夫も存在しない。そこはわずかな埃もなく、ただ広々として際限なく明るい世界だ。それは久遠の昔にすでに覚り終えていた佛如来であり、晦まされることのない本来の衆生なのだ。このように気づいた時も何か得られるものでなく、気が付かないでも減るものでない。今初めてのものでなく、永遠の昔からそうだったと実感することこそ、前世からの智慧を得たというのだ。これが分からないようでは、いたずらに迷いと覚りという人間根性に振り回され、昔だ、今だという幻影に振り回され、自己の人生を生きるのは自己のみと知らないで、自分の本心はどこにも誤りがないことも知らない。これを指摘するために歴代の佛世尊、祖師菩薩の登場を仰ぎ、達磨大師がインドから中国に渡ったというひのき舞台を用意した。佛世尊が何のためにこの世に生まれたか、達磨西来の本意は、ただこのためなのだ。あくまでも他人の話ではない。しっかりと自己の本心を見つめなおして、どこにも隠すことのできないこと、ごまかすこともできない事実だと気づくべきだ。これらは前世以来の智慧にいざなわれると表現するのだ。今日、拙い詩を紹介して、これを示そうと思うが、諸君、聞いてくれるかな。
此の因緣須く子細にすべし。名字道を明らめ、若しは生死去来真実の人体と明むとも。自己本性の虚明霊廓なることを明らめずんば、諸佛の所証をしらず。故に菩薩の放光を見ておどろき。諸佛の相好を見ても愛すべし。ゆへいかんとなれば。貪瞋癡等の三毒未だまぬかれざる故に。今師の往因をみるに、愛によりて退墮して忉利天に下る。然も宿因によりて帝釈の説法にあふて梵天に昇り、月支国に降生す。積功累徳空しからず。終に十八祖にあふて宿命智を発す。いはゆる宿命智といふは。尋常過去をしり未來をしることと思へり。是れ何にかせん。ただ本来不変の自性。聖凡なく迷なきことを看得すれば。百千の法門。無量の妙義。総に心源にあり。故に衆生顛倒も諸佛成道も。自己方寸の中にあり。全く根塵の法にあらず。心境の相にあらず。ここにいたりてなにをか古とし。なにをかいまとせん。何れか是諸佛。何れか是衆生。一法の眼に遮るなく。一塵の手にふるるなし。但虚明一片にして。廓落無際なるのみなり。即ち久遠実成の如来。不昧本来の衆生也。如是悟りしる時も増さず。如是しらざる時も減ぜず。久遠劫来恁麼也と覚觸するを。宿命智を発すといふ。もし此の田地にいたらずんば。徒に迷悟の性情にみだされ。去来の相に移され。遂に自己ある事<をしらず。本心あやまらざることを明らめず。故に諸佛をしてわづらはしく出世せしめ。祖師をしてはるかに西来せしむ。出世の本懐西来の本意。只此の事の為也。更に他事にあらず。須く低細用心して。霊霊として不昧。明明として不蔵なる事をしるべし。本来一段の光明ある事をしるを宿命智といふ也。今日又卑語あり。いささか些子の理を通ぜんとおもふ。大衆、聞かんと要すや麼
前世から繋がる我が身を押し倒してみれば、
いまここに昔の自己があったのだと気が付いた。
宿生隔歴の身を推倒して、而今相見す旧時の漢。
推倒宿生隔歴身 而今相見旧時漢(拈提並びに偈頌とその現代語訳)
語註―「名字道を明らめ」・・・『宝慶記』で道元禅師は如浄禅師に「了義経」の本質を質問した時、如浄禅師は『了義経』とは「世尊の本事、本生等を説く経なり。・・・・劫、国、名、姓、寿命、眷属、作業、奴僕等を説き了りて、説かざることなきを了義経と名づくるなり」と示され、これに対して道元禅師は「一言半句なりと雖も、道理を説き了れるを了義と名づくべし」と反問した折、如浄禅師から「汝が言非なり」と厳しく叱責され、詳しく了義経の本義を説明されて、-道元の皆知りし所は、未了義の上に於いて了義と計したり」と平伏したことが記されている。忉利天・・・梵語Trāyastriśaは、欲界における六欲天の第二の天である。意訳して三十三天ともいう。久遠実成の如来・・・「法華経」八巻二八品の中、後半の四巻一四品(従地涌出品から普賢菩薩勧発品まで)の称。釈迦自身が、世に現われた自分は仮の姿であって実は永遠絶対の法身であることを明らかにする部分を本門といい、二十八品の前半、序品安楽行品にいたる十四品をいう。この世に垂跡した釈尊が一切衆生を一乗に会入させていくことを説いた部分。釈尊は三〇歳で悟りを開いたのではなく永遠の過去からの仏となっていたが、輪廻転生を繰り返した後についに釈迦として誕生して悟りを開くという一連の姿を敢えて示したという考え方。「久遠」とは、漢語で「永遠」を意味する言葉で、時間が無窮であること。法華経の如来寿量品第十六に、「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。しかし、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」とあり、達磨西来の本意・・・達磨大師が中国に来た本来の意味。覚触・・・身をもって気づく事。