第二十章
第二十祖。ジャヤタ(闍夜多尊者に、ある時十九祖クマーララータ尊者が示した。「君はすでに身と口と心の三業の作る事を理解しているが、しかし未だ行いは迷いから生まれ、迷いは気が付かない過去の体験から生まれ、過去の体験は気が付かないことにより、気が付かないことは本来無垢の生命に起因していることを知らない。生命は本来清らかであり、生滅もなく、何かを作ることもなく、報いを受けることなく、他人と争うこともない。ただそのままですべてが整っていることを知らない。もし君がこの法の在り方を体得すれば、もう仏さまと同じだ。すべての善悪、有るもの、無いものも夢幻のようなものだ」と。ジャヤタ尊者はそれを聞いてすべて理解した。そこで過去世の智慧力に誘われた。
闍夜多尊者。因みに十九祖示して曰く。汝已に三業を信ずと雖も。而も未だ業は惑より生じ、惑は識に因て有り、識は不覚に依り、不覚は心に依り、心本清浄にして。生滅無く、造作なく、報応無く、勝負無く。寂寂然、霊霊然たるを明らめず。汝若し此の法門に入れば諸佛と同じかるべし。一切の善悪、有為無為皆な夢幻の如しと。師聞き言を承け旨を領ず。即ち宿慧を発す。(本則並びに現代語訳)闍夜多尊者は北天竺国の人。智慧は豊かで人を教化するに限りない。ある時中インドにおいて摩羅多尊者に出逢って質問した。我が家の父母はいつも佛法僧の三宝を信じているのに、疫病に煩わされてなすことが皆心にかなわない。ところが隣の家では以前から旃陀羅を生業としているのに、健康で皆心に適っている。隣家の幸福と我が家の不幸はどうしてでしょうか。鳩摩羅多尊者が答えた。「疑いを持ってはいけない。善悪の報いには三つの形態がある。一見行いの善い人が早死にし、凶暴な者が長生きをする。身勝手な者が僥倖を得、義理堅い者が不幸に出会う。そこで因果の道理は虚偽であり、罪や福を考える必要がないと。これは人の世にはよくあることだ。だが人の為すこと言うことは惑いを少しも離れない。無限の時を重ねても摩滅しない。因縁とは必ず現実となる。闍夜多がこの教えを聞いて、従来の疑念を晴らした。鳩摩羅多尊者が言った。「君はすでに身口意の三業を信じている。乃至過去世の智慧に誘われた。
師は北天竺国の人也。智慧淵沖にして化導無量なり。当時中印度にて十九祖に逢い問て曰く、我が家の父母素より三宝を信ず、而も嘗て疾瘵に縈れ、凡そ営む所、皆不如意と作る。而るに我が隣家久しく旃陀羅の行を為すも、身常に勇健にして所作和合せり。彼れ何の幸にして而も我れ何の辜かある。尊者曰く、何ぞ疑ふに足らんや。且く善悪の報に三時あり。凡人は恒に仁なれども夭、暴なれども寿を、逆なれども吉を、義なれども凶を見て、便ち謂ふ、因果亡く、罪福虚しと。殊に知らず影響相ひ随ふこと毫釐も忒ふこと靡し。景は忒に作る。縱ひ百千萬劫を経れども。亦た磨滅せず。因縁必ず相ひ値ふと。時に師、是の語を聞き已て、頓に所疑を釈す。尊者曰く、汝、已に三業を信ずと雖も乃至即ち宿慧を発す。
註記ー闍夜多Śayata/ Jayata 370頃~450頃 グプタ朝スカンダグプタ治世の頃か。435–467または455–456~457。このころ法顕三蔵がインドを訪問している。399ー413。ナーランダ寺はまだ完成していなかった。北天竺国―これはガンダーラ地方と考えられる。タクシャシラという王国がタキシラ(現在・パキスタン)を中心とする地域を支配したとされる。『付法蔵因縁伝』では、闍夜多尊者は「禁戒を持ち、漏失すること有ることなし。世尊の記する所のの最後の律師なり」とあり、付法の後、德叉尸羅城に行化したことが述べられている。旃陀羅ー(Caṇḍāla の音訳) インドバラモン教で四姓の最下級である首陀羅よりもさらに下の階級。アウトカースト。屠畜、漁猟、獄守などの職業にたずさわった。不可触民。ダリット。しかしこの因縁は『付法蔵因縁伝』には全く述べられていない。この話は『宝林伝』で初めて見られるが、その後『祖堂集』、『景徳伝灯録』などに受け継がれた。『伝光録』は『伝灯録』の鳩摩羅多章とほぼ一致している。なおインド国民がヒンドゥー教の過酷な差別虐待を免れたのはビームラーオ・ラームジー・アンベードカルBhimrao Ramji Ambedkar、1891~1956 )が主導してマハラシュトラ州ナグプールで三十七万人の仲間とともにヒンドゥー教を捨て、仏教に改宗した時代まで待たなければならなかった。(ヒンドゥー教から改宗することをディークシャDeeksha)と呼んでいる。)彼はインドの政治家・思想家で、インド憲法の草案を作成したほか、不可触民(ダリット)改革運動の指導者、近代インドにおける仏教革新運動の指導者。ヒンドゥー社会の最下層、アンタッチャブルあるいはダリットとして知られるカーストに属する両親のもとに生まれた。彼は「自分はヒンズー教徒として生まれたが、私は決してヒンドゥー教徒としては死なない」と宣言し、その後、自身および自らに追随する者のためにナグプールで改宗式を行った。ナグプールは彼の半世紀における努力と仏教信仰を支持したナグ族の故国であった。 ナグプールのラムダスペースに隣接する地区がその会場として選ばれた。1956年十月十四日、アンベードカル夫妻はマハスタヴィル・チャンドラマニMahasthavir Chandramaniを戒師として三宝に帰依し、五戒を受けて仏教徒の誓いをした。そして会場を埋めた三十七万人もの民衆に、三帰五戒および「アンベードカル二十二の誓い」を仲間に与えた。現在インドの仏教徒は四億人ともいわれているが、インドのブラーミン(官僚、学者、ジャーナリスト)たちはヒンドゥー教徒の一部だとして、その存在を隠している。
ここに述べた物語は修行者一人一人が確実に了解せねばならない。言うところの「常日頃、仏法僧の三宝を信じているのに、病にかかって、体調が優れない。ところが隣家では長らく旃陀羅の行いをしているのに、身体は丈夫で自由に働いている」とは、このように考えられる。「われ佛法に帰依して年久し。佛法のちからによりて其身つねに無恙。其事心にかなふべきに。悉く心にかなはず。身又病にまどわる。是何の罪ぞ。旃陀羅もとより悪事を行ず。すべて善種を修せず。然るに事にふるること吉祥にして身勇健なり。これ何の幸かあると。」今の人たちもそのように思うだろう。出家者さえもその思いをなすのだから、在家人がそうように感じるのは当然だ。そこで言った「君は疑う必要がない。そもそも善悪の報いには三つの時間的な違いがある。普通に考えても、他人に仁愛の心を持つものが若死にすることもあり、横暴な行いをする者が長生きすることもある。惡逆を作る者が幸福であり、信義をわきまえるものが、凶悪となることを見て、過去とは何か、未来とは何かをはっきりさせず、たださしあたりの現実を観察し、因果の法、罪と福などは虚構だ考える。それは愚痴の極みであり、仏道の学びが不徹底なためにそのように思っているのだ。昔から三時業というものがある。順現業―今の世で善悪の業を作るのに、その生涯の中で果報を受けること。これを順現業と名づける。二順次生受業。今の世で善悪の業を作って、この世では現れず、次の生に果報を受ける。五逆七遮ー五逆罪と七遮、五逆とは殺父、殺母、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧でありこれに殺和尚・殺阿闍梨を加えて七逆罪(<七遮)とする。これ等は必す順次生に報をうける。三順後業。今の世で原因を作り、次の世、その次の世、さらに無量の世の間に行いの果を受ける。だから過去の善い行いによって、今の世の善い結果を受けるとしても、或いは昔の世の行いによって今の世に受ける結果は同とは限らない。だから過去世の善悪の行いがはっきりしているものは、今の世に善悪のはっきりとした結果を受ける。ところが善悪の行いが入り混じっているものは、今の世で善悪入り混じった行いの結果を受ける事となる。仏道修行の者は重い善悪の行いが゛あっても、結果として軽くなることもあり、軽い善悪の行いをなくすることもできる。それは本来過去世の悪い行いは、未来世に重い苦しみの結果を受けるべきであるが、今の世の修行の努力により、軽くなることもある。或は病に罹り、或は自身の思い通りにならないこともある。或は何か口に出せば、他人に見下されることもある。これらは未来に受けるべき重い苦の行いの結果を、今の世に軽く受けているのだ。だから仏道修行の力は実に頼もしいものだ。過去世に繰り返して作り重ねた悪業の報いは、一心腐乱に努力すれば、すべてが消えてなくなるのである。ただ仏道の学びにおいて、それなりに道を身に着けても、他人は悪い評価をしたり、自身の為すことが思い通りにならず、身体も健康でないこともあるが、ここで重い行いの結果を軽いものとすることもできると受け止めて、他人が悪の行いを批判することがあっても、その人を恨んではならない。他人からの悪口を、くよくよしてはならない。自分を謗った人に対して礼儀正しくするのはよいが、悪い人間だと決めつけてはならない。佛道の行いは日々に積もってゆき、過去世の行いの結果はその時時に消えてゆく。このことをしっかりと心身に踏まえて修行すべきだ。君が身口意の三つの行いの因果を信じたとしても、行いの根本を理解できていない。行いというのは、善悪の報いが決まっており、凡人と聖人の区別もさまざまである。三界六道・四生九有といわれるが、これらは皆すべて行いの報いなのだ。そもそも迷いとは、憎み愛してはならないものを憎み愛し、是非の判断をしてならないものを是とし非とする。惑いとは、男でないものを男と認識し、女でないものを女と認識し、自他の区別をこしらえる。不覚とは、自己の根源を知らず、あらゆるものの出発点を明らかにしない。そのためにあらゆる物事に智慧の眼を失う。これを無明と呼ぶのだ。その心は本来清浄であり、先入観も反応もないので、自他の縁に背く事もない。この心の一変するのを不覚と呼ぶ。この不覚の心が起これば、自己の心は本来清浄であり、霊明なものであり、この心の働きによって、無明はたちどころに退散し、十二の因縁も四生六道も全く不要となる。人々の本心とはこのようなものだ。だから生と滅との違いもなく、作られた物事も存在しない。そこには憎みと愛もなく、増えもしなければ減りもしない。ただあるがもまま、そのものなのだ。
だから諸君に言う。本心を体得しようと思えば、萬事を放下し、諸緣を休息して。善悪を思はず、眼を鼻の先にかけて、本心と対面するがよい。心が静寂なときには、あらゆる物事がみななくなる。根本の無明が終息するので、末節の業報は存在しない。それは無分別の所にも留まらず、不思量の際にも拘らない。常住でもなく、無常でもない。無明とか、清浄とかの実体もなく、諸仏と衆生とく分け隔てもない。これは清白円明の田地というべきである。ここに到達すれば本物の修行僧である。そうであれば諸仏と同じである。ここに至れば一切の有る物、無いものは、みんな夢幻のようなものだ。それは手に取ろうとしても、手に入らず、見ようとしても目に見えない。ここに至れば、諸仏出世以前の所を明らかにし、衆生未顛倒の所に到達する。この田地に至らない時は、君たち修行者が、幾ら一日中、礼拝し、行住坐臥の生活に心身を調えようとも、それは自と他を比較し、是非の心を入れた人天、有漏の業報そのものだ。影が自身の形の従うように、有ったとしても実佛でない。だから君たち諸君各々、真の努力を傾注し、この本心を明らかにせねばならない。そこでいつものように拙い詩を紹介する。聞いてほしい。
語註―縈疾瘵―病にかかる。
上来の因緣、実に学人として一一精細に見得すべし。いはゆる「素信三寶。而嘗縈疾瘵。凡所營作皆不如意。而我隣家久爲旃陀羅行。而身常勇健所作和合」すと。ここにいたりておもふ。われ佛法に帰依して年久し。佛法のちからによりて其身つねに無恙。其事心にかなふべきに。悉く心にかなはず。身又病にまどわる。是何の罪ぞ。旃陀羅もとより悪事を行ず。すべて善種を修せず。然るに事にふるること吉祥にして身勇健なり。これ何の幸かあると。今人も如是おもへり。出家猶是の心あり。況や在家は皆如是。いはく汝何ぞ疑ふにたらん。しばらく善悪の報に三時あり。おほよそ人の仁ある者中夭あり。卒暴なる者壽命ながし。逆罪するも吉祥也。義ふかき者凶悪なるをみて。過去をも明らめず。未来をも会せず。ただ眼前の境にまどはされて。即因果なし罪福空ししとおもふ。是すなはち愚癡のはなはだしき也。学道おろかなるゆへ如是也。三業とは、一順現業。今生善悪業を修するに、即一生涯の中に報を受く、是を順現業となぞく。二順次生受業。今生業を修して次の生に果報を受く。五逆七遮等は必す順次生に報をうく。三順後業。今生業因を修して、次の三生四生乃至無量生の間に業果を受く。然れば過去の善業によりて。今生の善を受くといへども。或ひは往業によりて今果不同なり。いはゆる純善悪業因の者は。今生純善悪業果を感ず。雑善悪業の者は、雑善悪業を受る也。又佛法修行の力ら転重受転。転軽今はなからしむる也。曰く過去劫の悪因未来に重苦感得すべきが、今生修行の力らによりてかろく受ることあり。或ひは病にまつはれ。あるひは事として心にかなはず。或ひは言を出せば人にかろしめらる。是悉く未来の重苦を今生に軽く受る也。然れば佛法修行の力らいよいよたのみあるべし。過去遠遠に修せし報は。ただ勇猛精進せば悉皆かるからしむべし然も参学の人として随分道を解すといへども。或ひは悪名をうけ。或ひは営作心にかなはず。身も勇健ならざる事あり。即転重受軽とおもふて。人ありて憎悪すとも。曽てうらむることなかれ。人ありて謗毀すとも。曽てとがむることなかれ。彼の謗人あまつさい敬礼することはありとも。厭悪することなかれ。道業日日に增長し。宿業時時に消滅す。然も須く子細に参得修行すべし。汝既に三業を信ずといへども。未た業の根本をしらず。業といふは善悪の報わかれ。凡聖のしな異也。三界六道・四生九有。ならびに業報なり。此の業は迷より発す。夫れ迷といふは憎愛すべからざるを憎愛し。是非すべからざるを是非す。其の惑といふは。男にあらざるを男と知り。女にあらざるを女としり。自をわかち他をへだつ。其の不覚と云は、自己の根源をしらず。萬法の生処をしらず。一切処に智慧をうしなふこれを無明と名く。これは思慮なく緣塵なし。是の心本清淨にして。余緣にそむくことなし。此の心の一変するを不覚といふ。此の不覚を覚知すれば。自己心本清浄なり。自性霊明なり。如是明らめ得れば。無明即やぶれて。十二輪転終に空し。四生六道速に亡ず。人人本心如是し。故に生滅のへだてなく。造作の品なし。故に憎なく愛なく。増なく減なし。ただ寂寂然たり。霊霊然たり。諸人者本心を見得せんとおもはば。萬事を放下し。諸緣を休息して。善悪を思はず。しばらく鼻端に眼をかけて。本心に向ひてみよ。心寂なる時。諸相みな尽く。其の根本の無明既にやぶるる。故に枝葉業報すなはち存せず。故に無分別の処にとどこほらず。不思量の際に拘らず。常住にあらず。無常にあらず。無明あるにあらず。清浄なるにあらず。諸佛のへだてなく。衆生のわかちなし。清白円明の田地にいたりて。始て本色の衲僧たるべし。若如是ならば。諸佛とおなじかるべし。ここにいたりて一切有為無為。皆つきて夢幻の如し。とらんとすれども手虚しく。見んとすれども目拘はることなし。此の田地にいたりぬれば。諸佛も未た出世せざる旨を明らめ。衆生も未た顛倒せざる処に達す。参学未た此の田地にいたらずんば。十二時中礼佛し。四威儀中に身心を調るとも。唯是人天の勝果。有漏の業報なり。影の形に隨ふが如し。有といへども実にあらず。故に人人精彩をつけて本心を明らめよ。例によりて卑語をつく。要聞麼
クスノキは大空に聳えている。
その枝葉と茎や根は土の中ではなく雲の外で栄えている。
豫章従来、空裏に生じ 枝葉根茎雲外に栄ゆ。
豫章従来生空裏 枝葉根茎雲外栄(頌古及び現代語訳)