第十五章
第十五祖。カナダイバ(迦那提婆尊者)が、龍樹菩薩に逢おうとして、その門口に着くと、龍樹菩薩は「この人は賢そうな人間だ」と感じ取り、まず侍者に、水をたたえた鉢を持たせて座の前に置かせた。するとカナダイバは一本の針をその水中に投げ入れ、菩薩に返し、親しく面会した。その時直ちに心が通じた。
第十五祖迦那提婆尊者。龍樹大士に謁するに、將に門に及ぶ。龍樹是れ智人なりと知り、先ず侍者を遣し、満鉢の水を以て、座前に置く。尊者これを覩て、即ち一針を以て投げ、而も之を進めて相見し、忻然として契会す。(本則及び現代語訳)
補注―迦那提婆―提婆菩薩の称・紀元180~270頃 Ārya-deva(聖提婆、聖天。一目眇 すがめなるを以てカナダイバ Kaṇa-devaという。第三世紀頃、南インドの人、婆羅門姓。一説にスリランカ国ともいう)玄奘三蔵の『西域記』巻十によれば、南コーサラ国の引正王が、龍樹を尊崇し、招いて城南の伽藍に居らしめた時に提婆がセイロンからきて龍樹と対論させ、龍樹の弟子となり、中観派の祖となったと述べられている。その後中インドのパータリプトラに移り、広く法を広めたが、頑凶な外道に殺害されたといわれる。著書に『百論』「広百論」などがある。伝は鳩摩羅什訳の『提婆菩薩伝』、『付法蔵因縁伝』、『宝林伝』等にある。 迦那提婆尊者は南インドの人。庶民階級の出身であり、はじめは福楽を願っていたが、別に弁論にもたけていた。
龍樹尊者は師匠から法を伝えた後、南インドに布教した。この地方人の大半は福楽を願う者であった。尊者が仏の正法を説くと聞いた民衆は、口をそろえて言った。「人の世では福楽が最も大切なのに、自己本来の生命などと言っても、それは誰にも見えない」と。龍樹が言った。「もし君が自己本来の生命に出逢おうとするならば、最初に自分という先入観を捨てるべきだ。」と。その人が質問する。「自己本来の生命は大きいものか、それとも小さなものか」と。龍樹が答えた。「自己本来の生命とは大きくもなく、小さくもない。広くもなければ狭くもない。幸福もなければ、努力の成果もない。それは死ぬこともなく、生まれることもない」と。彼らはその教えが納得できたので、当初の常識をやめて、龍樹の教えを受け入れた。そこに智慧を具えた迦那提婆がいて、龍樹に面会を求めた。これによって迦那提婆の心を定まった。龍樹尊者は直ちに迦那提婆を自分の座を半分与えて坐らせた。それは恰も霊鷲山における迦葉尊者と同じだ。龍樹尊者は説法を始めた。坐ったまま、満月の景色を現した。迦那提婆は「これは龍樹尊者が自己本来の生命を現し、私たちにこのことを教えられたのだ」。なぜならば「無色透明な坐禅の世界は恰も満月のようなもので、カラッとして何もないからだ」と民衆に語った。提婆がそのように発言すると満月の姿は消え去り、また元の座に戻り、これを詩にして表した。
体を満月の姿に変え、自己本来の生命とは何かを表した。
説法しても、決まった形がない。それは聴覚や視覚を超えた世界だから。
このような訳で師匠と弟子との区別がなく、自己本来の生命が通い合った。
師は南天竺国の人也。姓は毘舍羅。初め福業を求め、兼ねて弁論を楽ふ。龍樹尊者。得法し行化して南印度に到る。彼の国之人多く福業を信ず。尊者の妙法を説かんとするを聞いて、遞ひに相ひ謂て曰く、人に福業有るは世間の第一なり、徒らに佛性を言ふ、誰か能くこれを覩む。龍樹曰く、汝佛性を見んと欲せば慢なり。人曰く佛性は大なるか小なるか。龍樹曰く、佛性は大に非ず、小に非ず。広きに非ず、狭きに非ず。福も無く報も無し。死せず生まれず。彼、理の勝れたるを聞いて悉く初心を廻らす。その中に大智慧迦那提婆。龍樹大士に謁す。乃至忻然として契会す。即ち半座を分ちて居せしむ。恰も霊山の迦葉の如し。龍樹即ち為に説法す。座を起たずして 月輪の相を現ず。師衆会に謂て曰く、此れは是れ尊者、佛性の体相を現じて、以て我等に示す。何を以て之を知る。蓋し以みるに無相三昧は形、満月の如し。佛性の義廓然虚明なりと。言ひ訖て輪相即ち隠る。復た本座に居して、偈を説て言く、身に円月の相を現じ、以て諸佛の体を表す。法を説に其の形無し。用て声色に非ざるを弁ず。如是なる故に、師資わかちがたく。命脈即ち通ず。(機縁とその現代語訳)
先ほどの物語の内容は普通ではない。最初から仏道にかなったと述べている。龍樹尊者は何も言わず、提婆も一言も質問しない。だからこれは師匠と弟子の区別がなく、主人と客人の隔たりがない。この時提婆は自らの法門の在り方を宣布して、インド五地方全域で「提婆宗=中観派」と呼ばれるようになった。中国の祖師が「銀でできたお椀に雪を盛りつけ、明るい月の中を白鷺が飛んでいる」と表現したのと同じだ。 このような訳で初めての出逢いで、師匠は満水の水を鉢に入れて自分の前に置かせた。ここに裏もなければ表もなく、内も外もない。その鉢にはどこも欠けたところがなく、何の陰りもない。底まで透き通っており、満ち溢れていて神々しい。そこに一本の針を投げ込めば、その様子は誰にでもわかる。徹底し、徹頭している。どちらが中心で、どちらかが外れでもない。これは師匠と弟子との違いがない。同じようでありそのものでもない。混ぜてしまってもその跡がない。眉を挙げて瞬いてこれを表現したこともあり、花の色を見、竹の響きを聞いて表現したこともある。それは聞こえる世界でも、見える世界でもないので、否定のしようがない。可もなく不可もない。鉢に盛った水のように捉えようがない。一応理屈で納得し、具体的行動で示す時は、はっきりと心根を表して去り、水の流れが山を穿って、世界にみなぎり去る。針は袋を突き刺さし、芥子粒ほどの微細なものさえも、刺してくる。この水は誰にも壊されず、針の固さはダイヤモンドよりも強い。ここでいうところの針と水とは、他でもない、君たちの体であり心なのだ。飲みつくす時は一本の針であり、吐き出す時はただの真水だ。そこで師匠と弟子の生き方が一つになり、自他の区別がない。命の鼓動が一つになり、大きく輝く時には、世界のどこにも収まる場所がない。それは恰も瓢箪の弦が瓢箪に纏わりつくようなものだ。付いても離れても、それは自分自身の心なのだ。その上、君たちがその真水を理解したとしても、その中に針が潜んでいることを実感しなければならない。これを誤れば忽ちに喉に穴が開いてしまう。ともあれ決してどっちつかずの中途半端ではならない。飲むときはただ飲み、吐き出す時はただ吐き出して、実際にやってみる。真新しくて心に滞りがないと気が付いても、結局、大雨、火災、暴風もどうする事ができない、天地宇宙がどのように変化しても遮る事がない。この物語に決着をつけるためにできの悪い詩を披露しよう。諸君聞いてくれるかな。
適来の因緣これ尋常にあらず。最初に道に合し来る。龍樹も一言の説なく、提婆も一言の問なし。故に師資存じがたく。賓主いかんが分たん。是に依て殊に迦那提婆宗風を挙説して、遂に五天竺の間提婆宗といはれし也。いはゆる銀盌に雪を盛り明月に鷺を蔵すが如し。如是の故に、最初相見の時すなはち満鉢の水をもて座前におかしむ。あに表裏を存じ、内外を存せんや。已に是満鉢終に虧闕なし。亦これ湛水虚明也。通徹して純清也。弥満して霊明なり。故に一針を投じて契会す。須らく徹底徹頂すべし、正なく偏なし。ここにいたりて師資わかちがたし。類すれども斉しきことなく、混ずれとも跡なし。揚眉瞬目をもて此の事を現ぜしめ、見色聞声をもて此のことを表す、故に声色の名づくべきなし。見聞の捨つべきなし。円明無相にして清水の虚廓なるが如し。霊理に通徹し、神鋒を求むる時に似たり。処処鋒を露し来り、明明として心を通じ、もて去る。水も流れ通じて、山を穿ち。天をひたし去り、針もふくろをとをし、芥子をさしもて來る。然も水遂にものの為にやぶれず、あに跡をなすことあらんや。針も他の為にかたきこと金剛にも過たり。恁麼の針水あに是他物にあらんや。即ち是れ汝等が身心なり。呑尽の時はただこれ一針なり。吐却の時は又是清水なり。故に師資道通達して、全く是れ自他なし。故に命脈即通して、まさに廓明なる時、十方におさむべきにあらず。恰も葫蘆藤種葫蘆をまつふが如し。攀じ来て攀じ去る。ただ是れ自心なるのみなり。然も諸人清水を知り得たりとも、子細に覚触して底に針あることを明むべし。もしあやまりて服することあらば。果して咽喉をやぶりきたらん。然も是の如くと雖も、両般の会をなすことなかれ。只すべからく呑尽吐尽して、子細に思量してみよ。たとひ清白にして虚融なりと覚すとも、まさにこれ廓徹堅固なることあらん。水火風の三災もをかすことなく。成住壞空劫もうつすことなけん。故に這箇の因緣を説破せんとするに、更に卑語あり。大衆聞かんと要すや麼。
一本の針が大海原の水を汲みつくす時は、
獰猛な龍がどこにも身を隠す場所がない。
一針釣り尽す滄溟の水 獰龍到る処に藏す
一針釣尽滄溟水 獰龍到処藏身(偈頌並びに現代語訳)
語註―銀盌に雪を盛り明月に鷺を蔵すが如しー「宝鏡三昧」の語。葫蘆藤種葫蘆をまつふが如しー「瓢箪の弦が瓢箪に纏わりつく」『正法眼蔵無情説法』にあり、元、如浄禅師の語。
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