第十三章、
第十三祖迦毘摩羅尊者は馬鳴尊者が「佛の命は大海原のようなものであり、山も川もすべての大地がそれによって成り立っているし、仏道修行者の道力もすべてこれによって成り立っている」と教えた言葉を聞いて、すっかり納得した。
第十三祖迦毘摩羅尊者、因みに馬鳴尊者佛性海を説いて曰く、山河大地皆依て建立す。 三明六通茲に由って発現すと。師聞て信悟す。 (本則現代語訳)
註記―迦毘摩羅ー130頃~200頃、梵名はカピマラ、Kapimala,または 韋羅尊者(ビーラ)Vīraと呼ばれる。『付法蔵因縁伝』では比羅。『宝林伝』、では毗羅に作り、別名を>迦毗魔羅とし、両者は同人としている。しかし『景徳伝灯録』では専ら迦毘摩羅としているので、この時代に毗羅から迦毘摩羅へと変遷したようだ。なお『ターラナータの印度仏教史』では、「韋羅は大乗教の阿闍梨にして詩人。四大論師の一。インドにては有名ならざれども西蔵では閻浮提の六厳の二勝として有名であるといい、さらに彼の阿闍梨は南天竺の地に来て、多数の伽藍の座主となり、土羅婆梨国に於いて五十か所の道場を新設した」とされている。三明六通―神足通ー機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。天耳通- ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。他心通- 他人の心を知る力。宿命通―自分の過去世を知る力。天眼通ー一切衆生の過去世(前世)を知る力。漏尽通―自分の煩悩が尽きて、今生を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力。宿命通、天眼通、漏尽通の三つをまとめて、三明と呼ぶ。
迦毘摩羅尊者(カビモラ尊者)はパータリプトラの人だ。初めは仏道以外の道を学んでおり、すでに三千人の弟子がいた。多くの道を熟知していた。馬鳴尊者がパータリブトラに来て、仏の教えを説いていると、一人の老人がきて、説法をしている所でばったりと倒れ伏した。馬鳴尊者が言った、「これは普通の人間ではない。何か特別なものを持っている。」という言葉が終ったところで姿を消してしまった。すると俄かに地中から一人の金色の人が現れた。その後さらに女人に変化して右手で馬鳴尊者を指さし、「長老様に礼拝を捧げます。ここで仏の授記をお与えください。今この地上に於いて、第一義を説き広めます」と言うや否や、姿が見えなくなった。馬鳴尊者が言った。「これは悪魔がやってきて、私と幻術の争いを望んでいるようだ」と。暫くすると天地がたちまち暗くなり、雨風が吹き付けてきた。馬鳴尊者が「悪魔がやってきた証拠だ。」と。「私はこれを取り除こう」と言って空中を指さすと、そこに大きな金の龍が現れ、実に神々しく山岳は振動した。ところが馬鳴尊者はそこでただ静かに坐禅をした。悪魔の幻術はすぐに消え去り、七日後になって一匹の小さな虫が現れた。虫の大きさは蚊のまつ毛に潜む蟭螟ほどに極めて小さく、馬鳴尊者の坐の下に潜り込んだ。尊者はこの虫を手に取り修行者に言った。「これは先日の悪魔のなれの果てで、私の説法を盗み聞きしていたのだ。」と。尊者は放して消え去るように言ったが、その悪魔は動くことができない。そこで尊者は「君も佛法僧の三宝に帰依すれば、本物の神通力が備わるはずだ」といった。そこで悪魔はついに元の姿に返り、尊者を礼拝し非礼をお詫びした。馬鳴尊者が「君の名前は何で、また幾らかの仲間がいるのかね」と質問すると、「私の名前は迦毘摩羅で三千人の仲間がいます。」と答えた。尊者はまた質問する。「君の神通力はどれ程のことができるのかね」と。迦毘摩羅が答えて「私は大海原をここに作ることだって簡単なことです」と。尊者が質問する。「それなら心の大海原を作ることができるかね」と。迦毘摩羅が質問します。「心の大海原とは何かを私は知りません」と。尊者は即座に心の大海原を説明し、「山河大地もすべてここから成立し、三明六通もすべてここから現れている」と語った。これを聞いて迦毘摩羅は初めて納得がした。
師は華氏国の人なり。初めは外道たり、徒三千有り。諸々の異論に通ず。馬鳴尊者、華氏国に於いて、妙法輪を転ずるに、忽ち独りの老人有り、座前にて地に仆る。尊者衆に謂って曰く、此れは庸流に非ず。当に異相有るべし。言い訖るに則ち見えず。また俄かに地より一りの金色の人を涌出し、復た化して女子となる。右手に尊者を指さして偈を説いて曰く、稽首す長老尊。まさに如來の記を受くべし。いま此の地上に於いて第一義を宣通す。偈を説き訖て見えず。尊者曰く、將に魔の来ること有るべし、吾と力くらべせんとす。暫ありて風雨悪到し、天地晦冥す。尊者曰く、魔来れる証なり。吾まさに之を除くべし。即ち空中を指さすに、一の大金龍を現わせり。威神を奮発し、山岳を震動す。尊者儼然として坐したれば、魔事随て滅す。七日を経て一の小虫有り。大きさ蟭螟のごとくして、形を座下に潜む。尊者手をもって之を取り、衆に示して曰く、これは乃ち魔の変ずる所なり。吾が法を盜み聴くのみ。乃て之を放ちて去らしむに、魔、動くこと能わず。尊者之に告げて曰く、汝倶に三宝に帰依して即ち神通を得べし。魔遂に本形に復し、作礼懺悔す。尊者問て曰く、汝の名は誰ぞや、眷屬多少なるや。答て曰く、我が名は迦毘摩羅。三千の眷屬有り。汝神力を尽くして変化することいかん。曰く、我れ巨海を化すも極て小事と為す。尊者曰く、汝性海を化すること得んや否や。曰く、何を性海と謂うや、我れ未だ嘗て知らず。尊者即ち為に性海を説いて曰く、山河大地皆依て建立す。三明六通も茲に由って発現すと。師聞て信悟す。(機縁及び現代語訳)
老人が地に倒れ伏してから、一匹の極めて小さな虫に姿を変えるまで、あまたの神通力を駆使した。ここでいう「化巨海極爲小事」とは、海を山に変え、山を海にするなどの多くの神通力を駆使したとしても、「心の海原=性海」などは名前さえ知らないでいる。ましてそれを実現することはきない。それだけでない。山河大地とは何によって成り立つのかさえ知らない。だから馬鳴菩薩は「それは心の大海原」に由っていると説いた。三明六通もここから出てくると言っている。なじみ深い「三昧」とはそもそも「首楞嚴三昧」には「無量三昧」、「天眼天耳六通」の三昧など多くが述べられている。これはどこが初めでどこが終わりという事はない。内容も多岐にわたる。だから山河大地を意識するとき、この三昧が地水火風に変わり、山河や草木とも変わってくる。それはまた皮肉骨髄という自分の拠り所ともなり、五体の各部分ともなる。だから出逢うところの総てのものが自己の分身でないことがない。このように二十四時間、意識しようとも、せずとも自分の人生以外のものでない。連綿とした命の絆もすべてが理由あってのものだ。つまり目に見ること、耳に聞くこともすべてがそのまま自己の生命の具現なのだ。この世界は恐らく仏の智慧でさえ、代わってもらえない世界なのだ。これが「心の海原=性海」の具現だ。そうすると仏法と見ても塵芥と見ても区切りがない世界だ。だから一々数えることもできない「心の海原=性海」なのだ。だから自己の思いを離れている。さらに言えば自身の現実は自己の総てであり、心を知るとは現にわが身に体験してゆくことだ。つまりわが身とわが心は別のものではない。理屈で分けようがない。たとえ外道の行う神通力により、種々な神変奇異を見せたとしても、それが自身の現実に他ならない。しかしこれこそ「心の大海原=性海」と気づいていない。だから自分自身を疑い、他人の行いも疑う。物の道理を知らない者は「根本に達した者」とは言えない。他人と競争する実力もない。だから悪魔の力は正体を現し、神通力が途絶えた。
ここで遂に自身の過去を改め、聖人に帰依し、争いをやめて正法が現れた。こうなると山河大地が何かと理解できても、過去の続きの自身ではない。自己の本性が理解できても、「自分は分かったのだ」という思いにすがってはならない。仏や祖師がいかに尊くても、自己に代わってくれない。土塀は土塀、瓦のかけらは瓦のかけらだ。そこに落ち着くこと。自己の生命とは気づいても、気づかずとも自己の思いを超えている。しかし一たび「心の大海原=性海」の立場に翻れば、過去と同じように見るもの、聞くもの、体験する自身の身も心も自然と現れてくる。このように体験するものすべてが自己の思いを超えているが、ただそれ以外のものでもない。空を叩いて色々な音声を現し、空に力を加えて種々な形を形成する。音声は音声、姿形は姿形なのだ。これを静かに振り返るとき、これを空だとか有だとか、現れるもの、隠れるものと区別できないし、自分や他人と区別もできない。そもそも他人とは誰で、自分とは誰なのか。空には何もなく、海は水だらけだ。昔からそれは変わらない。そうすると現実に直面するときも、何の足し前もなく、現実が移ろいでも何も失うものがない。過去の寄せ集めが今の自身であり、すべてが自己の生命の顕現だから一心と言っている。そうならば「仏道を明らめ、仏心に証徹するのにも、すべて今の自己を離れて求めてはならない。ただ自己本来の生命が現れれば、他人は人の顔をした鬼と呼んで称える。
雪峯が言った、この事を会せんと要すれば、我が這裏にて如一面の古鏡に相ひ似たるべし。胡来れば胡現じ、漢来れば漢現ずと。
これこそが如幻三昧であり、はじめもいつか分からないし、終わりもいつとは決まらない。だから山河大地を建立する時も皆これによるのだ。三明六通の神通力もここに由っている。だから自己の生命のほかに具体的世界を見ることができないし、「心の大海原」の外に川や井戸の一滴水を考えることができない。今朝もまたこの物語の締めくくりとして拙い詩を示そう。聞いてくれるかな。(提唱現代語訳)
補註―三昧さんまいー梵語のサマーディsamādhiの音写で、三摩提とも音写し、定(じょう)、正受などと漢訳する。原意は「心を一か所にまとめて置くこと」をいい、これが心を一つの対象に集中し散乱させないという、古代インドでは解脱する手段として種々の方法が考えられたが、ヨーガの修行法は古くから行われ、ヨーガ学派はその極地を三昧とした。首楞厳三昧しゅりょうごんざんまいーあらゆる法門を包含する三昧。śūraṃgama-samādhiの音写語、首楞伽摩三摩地とも音写される。首楞厳(śūraṃgama)は健行や勇行などと訳され、勇敢に行くこと、あるいは英雄の行進といった意味。大乗経典や論書に広く説かれるなか、『首楞厳三昧経』に詳しく説かれる。そこでは、首楞厳三昧を得る事により、菩薩は様々な神通力が可能になるとされ、さらにこの三昧はあらゆる法門や三昧を収めるもの、あらゆる三昧や覚りに至るための法は、すべて首楞厳三昧に随従するとされる。
実に老人仆地より、蟭螟虫となるにいたるまで、神力を現ずること実に無数なり。いはゆる化巨海極為小事。夫れ海を変じて山となし。山を化して海となし。神力を現することきはまりなしといへども。性海未だ名をだにもしらず。何にいはんや化することあらんや。然も山河大地何物の変と覚することなきに、馬鳴すなはち説く、是れ性海の変なりと。しかのみならず三明六通これより変ず。いはゆる三昧は首楞嚴等の無量三昧、天眼天耳六通これ始もきはなく、終りもきはなく。前三三後三三即是なり。正に是れ山河大地を建立するとき、三昧地水火風と化し、山河草木とも化す。所謂皮肉骨髓とも変じ、五体身分とも化し来る。未た一事一法として分外より来るにあらず。故に十二時中虚く捨つる底の功夫なく、無量生死いたづらにあらはるヽ底の相貎なし。故に眼に見ることもきはまりなく、耳に聞くこともきはまりなし。恁麼の見聞をそらくは佛智もはかるべきことあらじ。あにこれ性海の化作ならざらんや。故に法法塵塵すべてこれ涯畔なき法なり。全く是れ数量に墮せず、是れ即ち性海なり。故に如是なり。然も今身をみるは、すなはち是れ心をみるなり。心をしるはこれ身を証するなり。全く身心二つなし、性相何ぞ分たん。たとひ今ま異道の中にありて神変を現ずるも、又是分外にあらざれども、自らしらず、これ性海なりといふことを。これによりて自をも疑惑し、他をもうたがひ来る。然も其の諸有をしらざれば、総に未達根本者力らをたくらぶるにたへず。故に魔力終につきて、神変しがたし。遂に己をすて他に帰し、あらそひをやめて正をあらはす。然ればたとへ山河大地を会すとも、徒に声色の中に繋縛することなかれ。たとひ自己本性をあきらむとも、又覚知にとどまることなかれ。また覚知も一両の佛面祖面なり。いはゆる墻壁瓦礫これ也。本性はまた見聞覚知にかかはらず、動静によらず。然れども性海を建立すれば、必ず動静去来遂に断つることなし。皮肉骨髓時と共にあらはれ来る。若し根本を論ぜんがごときんば、見聞とあらはれ、声色とあらはるとも、他の為にすべきなし。然れば空を扣てひヾきをなす。故に衆声を現ず。空を化して諸物をあらはす。故に形貎区区なり。故に空は是れ形なしとおもふべからず、空はこれ声なしとおもふべからず。更にこのところに到りて子細に参到する時、これ空とすべきにあらず。これ有とすべきにあらず。故に穏顕の法とすべきにあらず、自他の法とすべきにあらず。なにを呼て他とし、なにを喚て我とせん。恰も空裏に一物なきが如く、大海に諸水現するに似たり。古今曽て変易せず。去来あに別路あらんや。故にあらはるヽ時も一点をも添えず、かくるヽ時も一毫をもうしなはず。衆法を合成して此の身とす。萬法を泯絶して更に一心と説く。故に道を明め心を証すること、すべて分外に向ひて求覓することなかれ。只だ自己本地の風光現成し来れば。他これを呼て人面鬼畜とす。雪峯曰。要会此事。我這裏如一面古鏡相似。胡来胡現。漢来漢現。全くこれ如幻三昧。故に始もきはまりなく、終りもきはまりなし。故に山河大地を建立する時も皆是れに依る。顕発三明六通時も茲れに由る。この故に自心の外に大地寸土をみることなかれ。性海の外に河水一滴をつくることなかれ。今朝又此の因縁によりて卑語を着んと欲す。要聞麼。良休して曰く、
註記―この段の逸話は『付法蔵因縁伝』にはなく、『景徳伝灯録』の馬鳴章にある。蟭螟蟲ーしょうめいちゅう・・・ごまむし。蚊のまつげに巣くうという想像上の小虫。微小なもののたとえ。
暫くして言う、広く果てしない大海原の波が天に届くとも、
本来の水に何も代わり映えがない。
(浩)渺波濤縱滔天、清浄海水何曽変(頌古現代語訳)
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