自己の価値は他人と比較する以前に在り 惠林寺隠居 関口道潤
蛬思蝉聲何切切 蛬の思ひ蝉の聲何ぞ切切たる
微風朧月兩悠悠 微風朧月兩つながら悠悠たり
雲封松栢池臺舊 雲は松栢を封じて池臺舊り
雨滴梧桐山寺秋 雨は梧桐に滴る山寺の秋
この偈(詩)は「道元和尚廣録第十偈頌 山居 十五首」の一つです。
その意味は「コオロギと蝉の鳴き声」が耳に満ちている。春はそよ風、朧月の光はぼんやりと霞んでいるが、共に遥かな世界を暗示している。今は秋、松や栢などの針葉樹に雲がかかって、かすみ、青桐の幹には秋雨が滴っている。山居は人間世界の取引、他人との兼ね合いを超えていると詠んでいます。私たち人間は、大抵の場合、自分と他人を比較して、その優劣で人間存在を評価しています。ところがこれは自分本来の存在とは全く別物であり、自己の価値は他人と比較する以前の所に在ります。道元禅師は深草の草庵でキリギリスや蝉の声を聴きながら雨のひと時を過ごしている。
昨年秋、二十一年前の三月に亡くなった本師内山興正老師の遺品を引き取り、惠林寺で少しずつ整理していたところ、法祖父沢木老師筆の「永平高祖山居之偈」という紙片が出てきた。少ししみがついていたが、表具師に依頼して、染み抜きをし、額にして頂いた。
これによく似た詩が『和漢朗詠集』の上巻に出ている。
秋晩 あひおもひてゆふべにしようだいにのぼりてたてば、
きりぎりすのおもひせみのこゑみゝにみてるあきなり
相思(あひおも)ひて夕(ゆふべ)に松台(しようだい)に上(のぼ)りて立(た)てば、
蛬(きりぎりす)の思(おも)ひ蝉(せみ)の声(こゑ)耳(みゝ)に満(み)てる秋(あき)なり
相思夕上松台立。蛬思蝉声満耳秋。(題李十一東亭 白居易)
道元禅師はこの詩を自分なりに読み直したものと思われます。
中唐の詩人白居易の作「李十一の東亭に題す」は
相思夕上松臺立 相思うて夕に松台に上つて立てば
蛩思蟬聲滿耳秋 蛩の思ひ 蝉の声 耳に満つる秋なり
惆悵東亭風月好 惆悵す 東亭 風月の好きを
主人今夜在鄜州 主人今夜鄜州(ふしう)に在り
とある。蛬は蛩と出ているものもあるが、いずれも「きょう」と発音し、「きりぎりす」と訓じられている。蛩―コオロギ。日本では古くコオロギの類を「きりぎりす」と呼んだ。「李十一」は、白居易の親友、李建(字は杓直)を指し、十一は彼の排行(祖父・曽祖父を同じくする一族間における、同世代の男たちの出生順序)である。「蛬思」は『和漢朗詠集』でも「きりぎりすの思ひ」と読んでいるが、これはコオロギの鳴き声)を表しているようだ。。タテ27cm ヨコ25cm Dojun
Sekiguchi 2020年 2月18日 ·